80.はじめてのお留守
名画から抜け出したような色とりどりの秋色した朝、珈琲の良い香りに誘われて、少し肌寒く感じながらリビングに向かう。
「おはようございます〜」
「おはよ」
ほんの少し気怠そうな感じはあるが、顔色も良く昨夜は珍しくしっかり眠れた様子の先生が、柔らかな笑顔を私に向けてくれた。
あの日以来、先生が弱い部分を私に見せることは一度もなかった。
その先生の強さが逆に辛かったが「御神 貴志」であり続けようとする先生のプライドが、目の前の病気と闘う気力にもきっとなっているのだと思い、それ以上は言わなかった。
最後に彼が安らげる場所でいたい。
今の私にしてあげられることはそれしかないから……
「せんせ~~今日の総リハは見学でも大丈夫ですよ? 昨日も大丈夫でしたし」
「何が大丈夫なんだか。お前昨日、7番最後ミスってたろ」
「……手がつりかけて。でも何とか誤魔化したでしょ?」
「そういうのも覚えていく必要はあるけど」
先生が苦笑いしながら、私の頭を軽くポンポンと叩く。
「先生ってそういう時、どうしてました?」
「昔、オクターブ間違えたことある」
「ぇ? 戻したんですか?」
「いきなりは出来ないから、途中で適当に間奏入れて、リピートさせて原曲に戻した。あとでオケに怒鳴られたけどな」
「先生、ドイツフィルでの奏者時代ってソロでしたよね?」
「デニスが勝手に決めた」
ですよね。先生なら単独で2000人ホールを満席に出来るから、そっちの方が公演回数も増やせますし、収益も上がりますし……
その後、一度きりのドイツフィルでのあの幻の第一バイオリン就任事件ですよね……
「その後が、アレですよね。最後アンコールに出てこなかった事件」
「よくそんな昔のこと知ってるな」
「前代未聞事件で有名ですからねファンの間では」
「もっと忠実に弾けとか、オケ全体の協調を考えろとか、くだらない古典を押しつけるから。古典聴きたいならCD聴けば良い、何の為にホールに足を運んでくれてるんだって言ったら、クビだって言うから帰っただけだ」
「せ、先生……」
先生らしい答えだった。それってまだ19歳とかの時ですよね?
私と同じぐらいの年齢で、ドイツフィルの大先輩である、しかも指揮者にそれ言ったんですよね……
でもその後、結局先生がその方のあとを継いだ形でドイツフィルで指揮者を任されるようになったんですよねえ。
「もうその頃から『御神 貴志』だったんですね」
思わず笑ってしまった。
「なんだよ『御神 貴志』だったって。ずっと変わらないだろ普通」
先生が、私を少し怪訝な表情で見たが、うん。この人に言っても無駄である。
「せんせ~~ところで脚は大丈夫ですか? 珍しいですよねえ? 先生が怪我するなんて。何してたんですか? 本当は?」
「俺のことはいいから。荷物まとめとけよ。もう少ししたら佐々木が取りに来るぞ」
「大丈夫で〜す。パスポートや必要な物は佐々木さんに既に昨日預けてますし」
「本当かよ。お前の大丈夫が一番信用出来ないわ……」
酷くないですか?
先生それ……
真面目な顔で言わないで下さいよ……
◇
今日は、先生の年内最後の舞台となるイタリア公演最終日。
長かったようであっと言う間のドイツからの怒濤の旅。
途中、本当に色々なことがあった。
それでも皆で協力しあって、なんとか今日を迎えることが出来た。
先生の身体のことを心配しながらも、昨日も普段と全く変わらない姿を堂々と観客に披露した「御神 貴志」 の、もはや神がかり的なステージ。
その姿を、すぐ近くで見られることに感謝しかなかった。
「先生~~大好き~~」
先生の背中に抱きつく。
「何だよいきなり」
◇
佐々木さんが荷物を取りにきて、それに伴いチェックアウトの手続きを済ませ、ホールへ向かう。
終演後すぐに夜の飛行機で日本に帰国することになる。
そして、運命の日を待つ──
◇
総リハが滞りなく終わり、全員が着替えを終え舞台袖に集合した。
「急なスケジュール変更で皆には迷惑を掛けて申し訳ない。今夜の公演の後、暫く離れることになり皆の協力が必要になる。申し訳ないが留守の間をよろしく頼みます」
先生が、全団員に頭を深々と下げた。
その姿に皆が涙を流し、先生の手術の成功を祈った。
ヴィヴァルディ作曲の『四季』より先ずは『春』からスタートする。
バイオリンでの参加を希望した先生の意向を受け、全員から大反対されたため『春』では、先生は待機となった。
「さて、そろそろ参りますか」
高科先生の声掛けで全員が背筋を伸ばし、舞台に出る準備を整える。
「もう全曲、天野指揮でもいいけどな」
先生が笑いながら天野先生に言うが、即座に天野先生が返す。
「止めてください。さっさと治して復帰して下さいよ? とはいえ来年からですからね!」
「NY出るって」
先生が続きを言うのを待たずして、近くにいた全員に止められた。
「留守番でお願いします」
「何言ってるんだよタカシ」
「お留守番です!」
「留守番に決まってます! 御神先生」
最後に佐々木さんの雷が落ちた。
「そんな重病人でもないだろ……」
「重病人です!」
「充分、重病人です!」
「何言ってるの? タカシ」
「黙れ!!」
佐々木さん怖いです……
「参りますよ。姫」
高科先生が差し出す手に、そっと手をのせた。
「睨むなよ貴志……」
「何も言ってませんが?」
せ、先生、圧が強すぎるんですが……
いやいや、お兄さんになるかもしれない人ですってば……
魔王様は、お留守が気に入らないらしく、終始舞台の袖から無言の圧い視線が贈られてきた。
怖いです……
やりづらいです……
睨まないで下さい……
お願いです。誰か彼に餌を与えて下さい……




