79.悲愴
──その後、休憩を挟み何事もなかったかのように再開された。
「タカシ、協奏曲入る?」
『1と2でいい。カウント入れてタイム計れ』
「了解。協奏曲1番から通しで2番まで。2分後スタートします。構えて」
魔王の容赦ない指令で全員が次の曲に気持ちを切りかえる。
昨夜、読譜しといて良かった……
先生にも練習に付き合ってもらえたし。
これってちょっと私ズルしてるわよね……
皆に改めて申し訳ない気持ちになる。
◇
「お、終わった……」
緊張から解き放たれ、抜け殻のようにフラフラになりながら練習室を出て、帰りの廊下で高科先生と互いに慰め合う。
「聞きしに勝る魔王っぷりだな……」
高科先生がポツリと呟いた。
ドイツフィルメンバーは、慣れた様子で全く動揺していなかったことに、私は逆に驚いていた。
「俺、ピアノで良かったって今日、心から思ったわ」
天野先生が苦笑いする。
「最後の一人になった時の、周りのいたたまれない同情の視線が余計に辛いよな……」
「止めて下さいよ高科先生。明日は私かもしれないんですから……」
「明日どっちって言ってた? 貴志」
「『春』から順にらしいです」
「なるほどな、進み次第かあとは……」
何とか今日の合同練習を無事終えることができたので、高科先生たちと一緒にホテルに向かった。
◇◆
──その頃ホテルの一室では、一人の男が「限界」を迎えていた。
ソファから立ち上がろうとした瞬間、頭部に激しい痛みを感じて視界が歪み、強い吐き気に襲われる。
再度立ち上がろうと試みたが脚に全く力が入らない。
頭の奥が割れるような激痛と、襲い続ける眩暈による強い吐き気で、意識が飛びそうになるが、もうすぐ帰ってくる──
心拍数が異常に上がっているのが自分でもわかる。
ま、まだだ……
こんな所で倒れるわけにはいかない!!
こんな無様な姿を見せるわけにはいかないのだ……
薄れゆく意識の中、微笑みかける愛しい宝物を懸命に思い浮かべようとしたが、輪郭がぼやけ歪み薄くなっていく……
ふざけるな!!!
揺れる視界の中、震える身体を抑えながら目の前のフォークに、力を振り絞り手を伸ばして握る。
そして──
自らの太腿を目がけて、突き刺した。
「っ……」
激しい痛みにより、やっとはっきりしてきた意識の中、ありったけの力を込めて立ち上がる。
「……クソッたれが!」
新たな痛みで意識が辛うじて戻ったことを幸いに、逃げるように部屋をあとにした──
◇
高科先生たちと廊下でわかれて部屋の前に戻る。
──カチャ
「ただいま~~」
あれ? いない?
「せんせ~~?」
リビングにも寝室にも先生の姿が見えないので、バスルームに行ってみる。
「せんせ~~~。ただいま~~」
音がしないのでバスルームのドアを開けるが、ここにもいない。
スマホを急いで確認するが、何の連絡も残されていなかった。
「先生どこに行ったんだろう?」
心配になってホテルのロビーに向かうために、再度部屋を出てエレベータに乗る。
エレベーターから出て、一階にあるカフェを覗いてみるが──
ここにもいない……
「どこに行ったんだろう……何も言わずにいなくなることなんて今まで無かったのに」
胸騒ぎがする。
何かあったのかしら……
心配になり電話をしようとした瞬間だった。
『ちょっと出ている。心配ない』
先生から連絡を受け、安堵して部屋に戻る。
部屋に戻ってから1時間ほど一人で待っていると、ようやく先生が帰って来た。
「どこに行ってたんですか?」
「大丈夫だって」
先生はそれ以上何も言わず、私の頭を撫でた。
何となくだが答えを避けられたので、それ以上は聞かなかったけれど……
いや、正確には聞けなかった──
「晩飯、何食いたい?」
「お部屋で良いですよ」
「いいよ別に」
「ううん。先生と一緒にいたいから」
その言葉に先生が強く抱きしめてくれる。
何となくだが彼を守りたかった。
少しづつだが確実に迫って来ている病魔の手が、先生の心を細い針で何度も突き刺していることが、最近感じられていた。
薬の副作用で眠そうにしている時間が前より増えているのと、夜中や明け方に先生がこっそり起きている回数が、最近明らかに増えていた。
何も言わないけれど、あの先生が大人しく「お留守番」の命令を守っていること自体が「あまり良い状態ではない」ことの証明だろう。
イタリア公演まで後4日。2日間の公演さえ無事に終わってくれたら……
あとはもう神様に祈るしか。
神様、お願いだから彼をまだ連れて行かないで!
自然と頬に流れ落ちてきた涙を、先生が唇で拭うようにそっと優しく覆ってくれた。
「大丈夫だから」
抱きしめられたまま力強い声で彼が言ったが、それはまるで自分に言い聞かせているようで……
「助けて欲しい!」と泣き叫ぶ悲鳴に聞こえた。
「大丈夫じゃない時に大丈夫って言わない約束でしょう? 貴志さん」
「大丈夫だ」
「先生! もう一人で抱え込まないで下さい! ずっと一緒って約束したじゃないですか!」
「花音……」
先生がとても辛そうな顔で私を見つめる。
その綺麗な瞳に少しづつ溢れてくる水滴が堰を切ったように、頬を通り過ぎることなくポタリと床に落ちた。
私は、無意識のうちに彼を強く抱きしめていた──
「先生は私が必ず守ります。先生も私を一生守ってくれるんですよね?」
「……」
──暫くの沈黙が続いた。
先生の腕の中、確かめるようにゆっくりと彼の顔を見上げた。
その瞬間、先生の腕が私の身体から離され、彼が自分の額に手を当て、まるで自分の表情を隠すように覆った。
その手は小刻みに震えていて、彼の長い指の隙間をぬうように、大粒の涙が再び床にポタポタと落ちた。
そして、消え入るような声で肩を震わせながら先生がゆっくり呟く。
「……約束破っていいか?」
「え? どう言う意味ですか?」
まさか、別れるってこと?
「もしもの時は……」
私は、その続きを遮るように先生の口に自分の手を押し当てた。
そして首を横に振る。
「御神貴志にその顔は似合いません。一緒に乗り越える約束でしょう?」
先生の背中を撫でるように抱きしめた。
「大丈夫、絶対に戻って来れます。絶対に大丈夫だから」
私の言葉に彼はそっと私の唇を塞ぎ、そのまま抱き上げられ寝室のベッドに降ろされる。
次の瞬間、強く求めてくる彼の全てを受け止めた。
互いの不安な気持ちを、ほんの一瞬でも忘れたくて……
間違っていると罵られても、かまわない。
それでも彼の「助けて欲しい!」と泣き叫ぶ無言の声を私は受け止めたかった。
あなたの痛みをどうか私に分けて下さい。
暗闇の中でもう一人で泣かないで下さい。
出口の無い暗く深い闇の中へ、二人して彷徨うように堕ちて行った──




