78.時は金なり
──朝から綺麗な青空が広がり、窓を開けると爽やかな風が入り込んでいた。
そんな中、朝方こっそり起きて薬を飲んでいた先生は今はぐっすり寝ている。
詳しくは先生から教えて貰っていないが、あの我慢強い先生が薬を飲んでいることを考えたら、あまり良い状態ではないことは明らかだ。
それでも尚、人前では絶対に弱いところを見せない先生の強さに、余計に胸を締め付ける……
佐々木さんの「お願い」を考慮し、全体練習には先生は参加しない。本番前の総リハのみ先生が加わることに決定していた。
◇
今日の朝練を終え、部屋に戻ると先生が起きていたので一緒に少し遅めの朝食にすることにした。
「先生、ちゃんと食べないとダメですよ? 一人でお留守番出来ますか?」
「お前と一緒にするな」
先生が笑いながら私の頭を軽く叩く。
「お昼ご飯ちゃんと食べて下さいよ?」
「今食って、また食わないでしょう」
「駄目です~~ちゃんと体力つけて下さいよ?」
「最近ゆっくりしてるから体重が増えた気がするわ」
先生が苦笑いする。
いやいや元々が細すぎでしょう。今でも細いですって!!
「あ、先生、お留守番中に勝手に一人で練習したら駄目ですよ?」
「留守番って一応、画面見ますよ?」
「ですよね……」
全体練習の場所には先生は来ないが、動画でその様子をリアルタイムで先生に配信するため、当然先生の指示が入る可能性がある。
「全部スコア入ってるんだよな? 当然」
「今日ってパガニーニだけですよね?」
「24曲通しでやりますからね」
「え? 全曲ですか?」
「当然でしょう? 何のための全体練習だよ」
「で、ですよね……た、多分大丈夫だと思いますぅ?」
「何で疑問形?」
ぇ? え? えええ? きっと大丈夫?
「今すぐスコア持って来い!」
雷が落ちたのは言うまでもなかった。
「不安な番号から順に」
このあと、大変素晴らしい体験が出来ました……
「バイオリン協奏曲は入ってるんだろうな?」
「た、多分? カンパネラまでですよね?」
「今日帰ってから全部さらう」
「……は、はい」
先生の顔が無表情に変化したのが、ちょっとだけ怖いんですけど……
◇
「では行ってきます~~ちゃんとお留守番してくださいね~~」
先生に挨拶をして部屋を出た。
◇
久しぶりにメンバー全員が揃った練習会場に嬉しくなる。先生の代理でユーリさんが、まとめ役を務めることになっていた。
「カプリース行きます」
ユーリさんの号令により、全員が1番から通し稽古に入る。
隣で天野先生がストップウォッチを持ち、スコアにユーリさんの指示を聞いて書き込んでいた。
この二人が揃うと、超怖いんですけど……
半分の12番まで行ったところで、一旦休憩になった。
「タカシ。どうだった?」
『1番、三列目ビオラやり直し。2番チェロ全員やり直し。4番ファースト全員やり直し。5.7話にならない。10.12第二とビオラやり直し。10分後に再スタート』
先生の容赦ない早口での指示が飛び、ユーリさんが先生の指定したメンバーを集めた。
そこからは、先生の怒号がモニター越しに飛んできた。
『三列目ビオラ全員前出ろ!』
先生の指示により、そこから順番に公開処刑がはじまった。
『二段目からもう一回』
先生とユーリさんの怒号が飛び交う中、一旦休憩を挟み後半の13番からラストまでの通し稽古となった。
「画面越しだと魔王感半端ないな貴志……」
「あれまだ静かな方だよ?」
高科先生の声にユーリさんが笑いながら答えたが、その声に私達は思わず無言になった。
「そのうち画面が真っ黒になって、タカシの声だけが聞こえる状況がやってくるよ」
「ぇ?」
「その時が本当の恐怖です」
ユーリさんが楽しそうに笑う。
え? えええええ?
そんなことが起こるんですか? 真っ黒の画面から声だけ聞こえるとか……
ホラーですか?
休憩後、練習が再開されて10分後、ソレは突然訪れた。
モニターの画面が真っ黒になり、先生の雷が落ちた──
『ビオラ三列目、白井、藤野、アレン。第二、高科、安藤、ミゲル。前出ろ。ヒュイ第二入れ。1番始めろ。止めるまで繰り返せ』
先生の低い声で、練習場が静まり返る。
『ユーリカウント』
ゴールが見えない公開処刑が始まった。
しかも、無言の先生の前でいつ終わるか分からない苦痛と不安な時間。
『藤野、アレン、安藤、ミゲルで再開』
ちょ、こ、これって……
出来なかった人は最後まで残されるの?
ユーリさんの顔を見る。
無言で微笑むユーリさんに、私は絶句した。
もしかして、この後……
『次、第一隣に並べ』
予想通り、魔王様の低い声がモニター越しに聞こえてきた。
『3.5.7通しで。カウントしろ』
魔王様の指示に従って、ユーリさんがメトロノームをスコア通りにセットしていく。
途中で速さが変わる所も全てユーリさんがセットし直すため、ほんの数秒でもズレたら即魔王様からの怒号が飛ぶことになる。
『さっさと始めろよ』
◇
お、終わった……
何とか最後まで弾けた。
『花音、ピノ、ジェニファ、ジャミン最初から』
悪魔の声により一歩前に出る。
第一バイオリンで今、名前を呼ばれた者以外は現役のドイツフィルで4月まで舞台に立っていた人達ばかりだった。
『花音、ピノ、ジェニファ最初から』
合格した者が順にこの公開処刑から抜けて行く。
『花音、ジェニファ最初から』
最後の二人になってしまった……
『ジェニファ最初から』
先生のその声に、ジェニファさんが床に座り込み泣き崩れる。
『ジェニファ最初から』
それでも気にすることなく、抑揚のない先生の冷たい声が飛ぶ。
私がバイオリンを構えた瞬間、先生の怒号が飛んだ。
『花音出て行け! ジェニファ最初から』
見かねたヒューイさんが、ジェニファさんの傍に近づいた瞬間、再度魔王様の冷たい声が飛ぶ。
『ヒュイ出て行け! ジェニファ最初から』
ユーリさんが目の前のジェニファさんに声を掛ける。
「Reichen Sie Ihre Kundigung ein?」
(退団届を出す?)
ユーリさんが無表情のままジェニファさんに高い所から薄ら笑いを浮かべながら言った。
『ジェニファ最初から』
再度先生の低く抑揚のない声が静かな部屋に響く。
それでも立ち上がろうとしないジェニファさんの姿にミシェルさんが近づこうとした瞬間だった。
『ユーリ! つまみ出せ! 退団届に今すぐにサインさせろ!』
「先生!!」
私の声を遮るように、ユーリさんに腕を掴まれた。そしてユーリさんが首を横に振る。
「何で? 何でこれで退団なの!」
私の問いに、ストップウォッチの画面を見せながらユーリさんが静かに答える。
「彼女に使った時間だ。俺達は全員Mカンパニーから給料を支払われているプロだ。彼女一人の為に全員が失った時間はタダではない。練習時間とは言え全体練習はお金が支払われていることを覚えておくように」
「……」
ユーリさんの言葉に誰一人言い返せなかった──




