76.新たな目標
──天野先生の声で、ピアノの音が鳴り始める。
ユ、ユーリさん……
トレモロ上手すぎでしょう……
ヴィヴァルディの『四季』の中でも『夏』と『冬』は弦楽器、特にバイオリンの見せ場とも言える鮮烈なメロディーが特徴的だ。
最初の出だしは印象的な小刻みなトレモロがピアノから始まり、それを追いかけて弦楽器が刻み、そこから重厚な『冬』へ向かう。
有名過ぎる曲でファンの方も多く、それだけ演奏者側も失敗は許されない。有名ナンバーだけに各フィルの独特な解釈も生まれている。
比較的原曲の楽譜通り演奏されることが多いこのヨーロッパの中で、御神 貴志が正統派だけで同じ曲を10年間、観客の前で披露するはずがなかった。
今回は二日しかイタリアでの公演がなかった為、先生は最後の『冬』は低音部のチェロパートを通常より増やし、より重厚感を演出している。
当然その分、主旋律を奏でる者が減るわけで……
ユーリさん一人で全主旋律をカバーする予定ではあったのだが、ユーリさんの事故によりその構想が危ぶまれていた。
しかし復帰を強く希望するユーリさんの意志の強さに先生が折れた感じで一曲のみ、という条件付きでの参加になる。
繊細さと強さを感じる『冬』をどこまで表現出来るかが一番の問題だった。
◇
ユーリさんの前での「特別レッスン」が開始され「とりあえず最後まで通しで一回弾け」との指令を受け、なんとか弾いてみたのだが……
重い空気が部屋を包む。
「サクライ。先ずはミスは無くすこと。情景以前の問題の話は、今は無駄な時間だから自主練でやれ」
「はい……」
ユーリさんの容赦ない言葉と、注意書きがスコアにどんどん書き込まれていく。
「あ、アマノ。ニホンゴ俺ちょっとしか書けない。ここA線からGに移動する際、音が小さくなるのを書いてよ」
あっ! そういえばユーリさんって、喋るのは日本語上手だけれど、文章となると表現の細かい部分が書けないんだった。
「あ、それなら私が書きます!」
「時間の無駄! さっさと最初からやれよ」
お、鬼が戻って来た。
日本にいた頃を思い出す……
怒ると先生よりユーリさんの方が怖いかも……
早口になるし、ドイツ語混ざるし、言葉悪いしで怖いのだ。
誰の日本語で覚えたのよ……
先生よね……絶対に。
他に日本人いなかっただろうし。
「違うノロマ! 何回言わせるんだよ! 馬鹿なの? 何でテンポ崩れるの!」
「はい……」
「ノーノー。話にナラナイ! ゴミが! Warum ist das so langsam, obwohl Allegro dasteht? Bist du dumm?」
(何でアレグロなのに、そんなに遅くなるの?バカなの?)
「ユーリ……」
天野先生が苦笑いする。
やっと練習が終わった時に、日本語とドイツ語でユーリさんが私に「バカ」と言った回数を教えてくれた。
天野先生……
その優しさは要らなかったです。
朝のパッセージは1時間、午後からの練習は2時間と先生からキツく言われていた。それ以外での個人練習は最大1時間までの合計4時間以内を必ず守るようにと。
通常時なら5時間までだが、公演前と言うこともあり無理ない程度の自己管理が最優先されていた。
「あ、サクライ。読譜は何時間しても問題ないからね~~じゃぁ明日朝ね~~」
「……はい」
「あ、明日ってガルネリ見に行けるんだよねえ?」
部屋に帰ろうとしたら、天野先生に呼び止められた。
「え? ガルネリなんですか?」
「は? 御神先生から工房の見学許可が出たって高科先生に電話あったって聞いたよ?」
「あれってガルネリの工房なんですか? 何かバイオリン作っているところで、世界最高峰な場所。とは聞きましたが……」
「こんなのをウチはファーストにしないと駄目なのか? アマノ?」
「すまない……ユーリ。ド素人で。楽典だけじゃなく歴史は教えたんだが。そもそも自分が使っている『ガダニーニ』の存在すら知らなかった残念な子だから」
天野先生……
その目で見るの止めてもらっても。
酷いです……
「タカシが甘やかし過ぎだろ。そもそも始めて2年足らずで何でガダニーニなんだよ。あり得ない」
ですよね……
私もそう思います。
本当に申し訳ないです。
「あ、桜井の場合、教えても同じだからだと思うよ? 『ガルネリ』も『ガダニーニ』も『ストラディバリウス』も全て『凄い高価な楽器』一括りな人なんで」
「天野せんせーー! そこまで酷くないですよ? 私だって色々勉強しましたも~~ん。ユーリさんのが煌びやかで艶のある万能型なんですよねえ? 先生のが悪魔の低音部と言われている?」
「それネット情報だろ」
ユーリさんが呆れた顔をしながら私を見つめた。
「ユーリ……諦めろ。御神先生が桜井に言わない理由を察しろ」
「タカシに同情するわ」
え? 何でそうなるんですか?
私、何か間違ったこと言ってますか?
二人の冷ややかな視線に悲しくなる。
「このオケ大丈夫かよ……」
ユーリさん……
何故か、二人から心配そうな顔で見送られ部屋に戻った。
◇
「先生大丈夫かなあ~~」
──ガチャッ
「先生! 何してるんですか!!」
バイオリンの音が聞こえてきて驚いて奥の部屋に走る。
「別に驚く程じゃないだろ。ただの基礎だし」
「ここって防音だったんですか?」
「当然でしょう」
知らなかった……
ってそうじゃなくて。何で今やってるんですか!
「何で隠れて一人でやってるんですか!」
「パッセージ練習は本来一人でするものですよ」
その勝ち誇った顔は何でしょうか?
魔王様、もう一度聞かせて貰っても宜しいでしょうか? 私めにその神の音色を。
「せんせ?」
「今日の分は終わりです」
「せんせ?」
「嫌です」
「せんせ?」
「高いぞ」
「やったーー!!」
先生が目の前でバイオリンを弾いてくれるのって本当に珍しい。
ピアノでたまに作曲している姿は目にすることがあるが、バイオリンは滅多に手にしない。
超レアな為、動画撮影しようとスマホを出したら怒られたのはちょっと残念だった……
先生がバイオリンをゆっくり構えた。これって予備で持って来ている普通の練習用のよねえ?
う、嘘……
まさかのヴィヴァルディの『夏』のソロ演奏が始まった。
もしかしてだけど、私この「音」と一緒に弾くの?
その行為があまりにも大それたことだと、改めて思い知らされた。
最初の出だしから数ページ分だけではあったが、圧倒的な音の支配感に言葉を失う。
「あ、有り難う御座います……」
「何だそれ」
「だって、あまりにも私と違い過ぎて……もう何て言えば良いのか」
「キャリアの差です」
いやいや経験の長さだけではないと思いますが。先生が奏者に戻らない理由は聞いていたが、本当にもったいない気がする。
「先生、お願いがあります!」
「何だ?」
「いつか二人で一緒に弾きたい!」
「バイオリンで?」
「うん!」
「並べられるぐらい上達したらな」
笑いながら言う先生の顔はとても優しくて柔らかな表情だった。
そしてまた、新しい目標ができた。




