74.魔王様はご機嫌斜め
翌朝、とても有り難いことに魔王、いや先生様から基礎練習を見て頂くと言う機会が与えられた。
だがそれは……
「なんで俺も一緒なんだよ」
「いきなり朝っぱらから呼び出すなよ」
私の部屋(ミーティングルーム化している)に「朝8時に集合しろ」と悪魔のメールが昨夜飛んでいたそうだ……
ミーティングルームだけは、完全防音室を用意して貰っていたため、練習室にも今回使用出来る。
全員は無理だが、小グループで使用出来るように佐々木さんがホテルの人に交渉してくれていた。
魔王様の前に一列に並ぶ私達を見ながら、魔王様がにっこり微笑んだ。
「40番を速さ120で2回。そのあと160、180で2セット。落としたら全員で最初から。始めろ」
中央の高科先生の合図で、ユーリさんと三人でパッセージに入る。
しかも40番を指定してくる先生……悪魔過ぎる。
教本の中でも40番は左手の移動距離が長く、一音づつ綺麗に鳴らすのが難しいページだ。
流石高科先生。全く乱れない……
あっ!
「頭から」
「すいません」と二人に無言で頭を下げる。1音のズレさえ見逃しては貰えない悪魔の前での究極の緊張が続く。
そもそも、この二人と一緒にパッセージとか、地獄でしかないわ……
「頭から」
「すいません……」
その後も、何度か私のミスで止められ、何十回目かにやっと指定速度2セットの通しが終了した。
「『冬』の出だし部分トレモロ」
「え?」
私の声を遮るように先生が立ち上がり、スコアを目の前に置いた。
「始めろ」
こ、怖っ。
「やめろ。高科最初からソロで」
綺麗過ぎる高科先生の音がお気に召さない魔王様の容赦ない声が飛ぶ。
「やめろ。なあ? それは冬の景色が見えるのか? ユーリ同じ所を」
ユーリさんがバイオリンを構える。
音の違いは、誰が聴いても分かる程の「冬の音」だった。
「何の為の『四季』かを、もう一度よく考えるように。ユーリ『春』のファーストの冒頭弾いてみろ」
その声に、少しユーリさんも驚いた表情を見せたが、直ぐにバイオリンを構えた。
何これ? 先程の『冬』とは全く違う、軽やかで息吹を感じる音色。
やっぱりユーリさん凄い。
「やめていいぞ。お前もう少し丁寧に弾けよ。最後、音流れ過ぎ」
「『春』弾くの3年振り? なんですけど。いきなり言うの止めてよタカシ。スコア覚えているだけマシでしょう?」
「阿呆か。何年やってるんだよ。2週間で花音と高科仕上げろよ」
「え? 一人増えてない? タカシナはセカンドでは?」
「『春』と『秋』は高科と花音の二本立てにする」
魔王様の声に、私と高科先生は固まった。
『夏』のリードは先生が、『冬』のリードはユーリさんが取るのは決まっていたが、『春』、『秋』の存在を忘れていた……
「初日のパガニーニも忘れるなよ。5番、7番、24番は管楽器入らないから。お前らだけでの完璧な音を期待するわ。まあ俺はお留守番らしいから。ハハハッ」
楽しそうに高笑いしながら部屋を出て行った先生の背中を見ながら、私達三人は顔を見合わせた。
「なぁ、魔王怒らせたの誰だよ?」
高科先生が私達をじっと見る。
私じゃないですよ? 多分?
「俺じゃないよ?」
うん。ユーリさんではないような??
え? 私じゃないでしょう?
何でそこ二人、私を見るんですか?
「私じゃないでしょう?」
「まぁ全員? でも俺は違うよ?」
ユーリさん……
「最悪……あの顔は絶対怒ってるから。しかもパガニーニってユーリ出ないよなぁ」
高科先生が私の顔を見る。
「明日から朝8時に集合ね。あとウサギちゃんは14時にもう一回ここで、じゃあね~~」
楽しそうに去って行くユーリさんの後ろ姿を見ながら、高科先生と二人で今後の責任の重さに自然と無言になった。
◇
──ガチャ
「昼飯食いに出るぞ」
「え? 早くないですが?」
「少し観光しながら」
「やった~~!」
◇
天気が良い昼間は陽射しもあり暖かい。先生に連れられてミラノの街を歩きながら青空を眺める。
「せんせ。大好き!」
「何だよ。いきなり」
手を繋いでこうして歩ける今を大事にしたかった。絶対にこの手は離さない。
「何これ、天国ですか?」
少し歩くだけでジェラート屋さんや、フレッシュジュースの店、ピザ屋など様々なイタリアを満喫出来る。
絞りたてのオレンジジュースを手に幸せな時間を過ごす。
「天気が良いからテラスで食うか?」
「でも先生が……」
先生の病気を考えると室内のほうが良いような。
「問題ない」
先生がサングラスを掛ける。
「せんせ? 無理しないでくださいよ? 私はホテルの中でも全然良いですからね?」
「俺が来たかったからいいんだよ」
笑いながら先生が優しく頭を撫でる。
二人でいる時には、ほとんどサングラスをかけることがなかった先生が、今までどのくらい無理をしていたのかは分からない。
だが、これからはそんな気遣いより、ちゃんと正直に言ってほしいと昨夜話し合った。
◇
目の前に並ぶシーフードやパスタにピザ。幸せ過ぎる光景に思わず声が出た。
「きゃぁ~~何この王様の食事!」
「王様って……」
「あ、先生エビの殻取りますよね?」
「ロブスターですけどね」
「あれ? これフォークでそのまま食べられるような気が?」
「そうして欲しいって注文するときに言いましたから」
なるほど! 流石先生!
「これなら先生も一人で食べれますもんね?」
私の声に、笑顔で両手を顎の下に置く先生の行動に思わず吹き出しそうになる。
「何ですか? 食べさせて欲しいんですか?」
「光栄だろ」
王子……
真顔で言える先生が可愛いのと、面白過ぎて思わず笑ってしまう。
それからも、一切自分で食べようとしない先生の介助?をしながらの楽しい?昼食の時間が過ぎて行った。
「先生、パスタは難しいです……」
「まだまだだなあ」
何ですと? こらあ!!
「貴志くん? 自分で食べなさい」
「面倒くさい」
「先生!」
何でこの人は食になると、こんなにどうでもよくなるのかしらねえ?
音楽にはあれだけ厳しいのに。
ほんの半拍でもずれたら即座に注意される。
本当に「音楽」以外に興味をあまり持たない人だわ。
「先生ってでも服とかは結構拘りますよねえ?」
「自分のはそうでもないけど」
え? 毎回モデルさんみたいじゃないですか?
「そう言えば、先生って自分の服っていつ買ってるんですか? 一緒にいて先生が自分の服を買っている姿を一度も見たことがないんですけど?」
「送ってくる」
「ぇ?」
「もう少しで契約切れるけどな。夏に受けた雑誌の」
「あ! ドイツに来る前のですか?」
「鬼マネージャーが勝手に引き受けたバイト。向こうの提案が1年間ウチの公演用ポスターの制作で、その代わりに出された交換条件が、指定デザイナーの服を俺が一年着ることだ」
「え? そうだったんですか? 初めて知りました」
「プライベートは別に自由だが、最近は増えてきたから着てるだけだ」
先生らしい答えだった。
「コート買おうかな」
◇
「あれ? 私の?」
「俺、これ以上いりません」
てっきり自分のコートを買いに行くのかと思ったら、レディース売り場に真っ直ぐ向かった先生に驚き、声を掛けたら当たり前だろ?と言う顔をされた。
「白で」
早っ!
白と赤の両方を試着させて頂いたが、先生の即決で白に決定した。
えっと、これって日本円に換算したらおいくらですか?
え? 0が一個多くないですか?
ええええ?
う、嘘??
値段もあまり見ることなく支払いを済ませた先生の顔を見上げる。
「あ、ありがとうございます」
「他は?」
「い、いえ。滅相も御座いません。充分で御座います」
それからも先生が勝手に色々買い物をして、結局荷物が増えたので全てホテルへ配達して貰うことになった。
「先生……買い過ぎでしょう」
「たまには良いんです」
「たまにって……」
やっぱりこの御方と買い物に一緒に来てはいけないことを、改めて感じた。




