66.天邪鬼
会場のロビーには既に多くの生花が並べ終わり、開演時間まであと1時間を切ったところで、出演者も慌ただしく着替えなどをしていた。
──ガチャ
「先生!」
「悪い遅くなった」
「何かまたあったんですか? 佐々木さんが心配していたようですけど?」
「ちょっと別件の話だ。大丈夫。それより用意は出来ているのか?」
今、ほんの一瞬だったけれど私から先生、視線を逸らした?
先日の違和感のような感覚を再度感じた。
思い過ごしなら良いんだけど……
隠し事はしないって約束しているし、何かあるならきっと言ってくれますよね? 先生?
「何?」
「何もないんですよね?」
「大丈夫」
着替えをしながら答えた先生の声は普段と変わらなかったが、何処か余所余所しい雰囲気を感じたのは、私の思い過ごしだろうか……
「ユーリがいない間、任せたぞ。花音」
先生は、にっこり微笑みながら私の頭を軽く撫でた。
「ユーリさん程は出来ないかもですが、精一杯務めます」
「お前はお前だ。俺が惚れた音はお前の音だ」
「音だけですか?」
「いや?」
先生が手を取り抱きしめてくれる。
前にも同じ質問をしたのを覚えていますか?
その時は先生、誤魔化して返事をしてくれなかったですよね。
あれから1年……
先生との約束を叶える為に、一緒の舞台に立てるだなんて。
あの時は夢でしかなかった約束が、目の前に掴める夢となって来たことに驚きと感動が押し寄せた。
それもこれも、全て先生と出会えたお陰。先生がいてくれたから頑張ってこれた。
「せんせ」
「ん?」
「大好き」
そっと瞼を閉じたが、軽く頭を叩かれた。
「むぅう」
「本番終わるまでお預け」
「むぅうう」
いつものちょっと意地悪そうに笑う先生の顔に安心した。
何もないんですよね? せんせ?
◇
今日はプラハでの初演日の為、チェコの英雄スメタナの『わが祖国』を全編行う。
『モルダウ』川をイメージした全6曲の交響詩。情感溢れる美しく豊かな響きが魅力的だ。
先生に手を引かれ、いつものように舞台へと送り出される。
ユーリさんがいない中、初めてのファーストバイオリンとしての重責を担う舞台。
◇
高科先生の頷きと、天野先生の「大丈夫」と言う無言のメッセージの視線を受け、ゆっくり登場してきた先生の合図を待つ。
大歓声の中、先生が軽く私達に会釈をし、指揮棒を振り上げた。
弦楽器と管楽器が交互に川の流れを表現していく。
途中、村の祭りに参加しチェコ独特の舞踊「ポルカ」のリズムに合わせ、楽しく踊る。やがて静寂な夜が過ぎ、嵐のような激しさが。
全員が激しい濁流に、のみ込まれる。
そして一筋の希望が見え優しい豊かな情景へと。
流れるような旋律が、静かにプラハの街に朗々と広がって行った。
──「ブラボー!」
大きな拍手と声援に見送られ、今夜の舞台の幕が下りた。
袖に戻った瞬間、足がガクガクし震えている私に、先生がそっと手を差し伸べる。
「よく頑張りました」
「……はい」
「歩けるか?」
「ううん」
ここぞとばかり、首を横に振る。
「お前、絶対歩けるだろ?」
笑いながら抱き上げてくれた先生に思いっきり甘えたくて、歩けないフリをしていたら、苦笑いしながらも楽屋までそのまま連れて行ってくれた。
瞼をそっと閉じる。
それに応えるように、優しくそっと口付けをしてくれる先生に再度聞く。
「せんせ? ずっと一緒ですよね? 何処にも行きませんよね? 二度と一人にしないって約束ですよね?」
「何だよ急に」
「何となく?」
「何だそれ。さて帰るぞ」
それだけ言ってさっさと帰り支度を始め出した先生の背中を見ながら、この胸騒ぎ? のような感覚は?
何なのだろう?
先生を問い詰められない自分に、何とも言えない気持ちが残る。
先程の質問にも、何となくだけど答えを避けた?
勝手に悪い方向に考えてしまう自分に呆れるが、真冬の寒い曇り空のように、分厚い灰色の雲が頭上を覆っているような感覚に襲われていた。
◇
夜も更けてきた、とあるカフェの一角。静かな空間に驚きの声が上がる。
「どう言うことですか!」
目の前に座るMカンパニーのマネージャーである佐々木が、すかさず口元に人差し指を立てたことで、天野は我に返り周りを気にしながら佐々木に謝る。
「すいません、つい」
「いえ。僕のほうこそ、いきなりこんな話をしてしまい」
「それで、どんな様子なんですか? 御神先生は?」
天野は、食い入るように佐々木に問いただす。
「僕には専門的な事はわかりませんが、医者の話だと今なら手術すれば完治を望めると。だから早急に手術するべきだと」
「分かりました。早急に父、いや、そっちは兄が専門なので今夜にでも電話しておきます。ドイツの病院名を教えて下さい」
「これです」
佐々木は自分のスマホにある着信履歴から電話番号と名前を天野に見せる。
「兄から病院には詳しい話を聞くように頼みます。イタリア公演後だと18日には大丈夫ですよねぇ?」
「16日に終わり、翌朝出ても18日なら問題ないでしょう」
「では、兄にも言っておきます」
「宜しくお願いします」
着々と帰国に向けての話が、二人の男の間で進んでいた。
「御神会長には僕から連絡しますので、申し訳ないですが天野先生には団員達をまとめて頂きたい。先生が離れる間、高科先生とお二人で彼らを頼みます」
「分かりました。あとは御神先生の監視ですね。と、桜井か……」
「すいません。僕がずっとつきっきりでいられたら良いのですが……」
「いえ。姫の子守役は慣れてますから。問題は保護者のほうです。頑固で天の邪鬼なんでねぇ」
天野が苦笑いする。それに賛同するように佐々木も困り顔を浮かべた。
「問題はユーリさんにいつ話すかなんですが……」
佐々木は、困り顔で天野を見る。
「ユーリには俺から話します」
「え? 御神先生からではなくて?」
佐々木は驚いた表情で天野を見つめた。
「御神先生だと、ちゃんと本当のことを言わないから。11月はユーリがいなくてもなんとかなるが、12月にもし間に合わない場合、桜井だけじゃ引っ張れない。ユーリの力が必要になります」
「なるほど……」
「もし時間が掛かれば、桜井が舞台にちゃんと立てる保証が無くなります。それを考えた上でもユーリには今、彼がやるべきことを全うして貰う必要がある。彼もプロです」
天野の言葉に、佐々木も頷いた。
「しかし、本当に隠し通すつもりだったんですね」
天野は少し寂しそうな表情を浮かべた。
「10年一緒にいたんですけどね……信用されてないんですかね? 僕はまだ」
佐々木の言葉に、天野はすかさず答える。
「関係ないと思いますよ? あの人なら誰にも言わないでしょうから」
「ですね……」
「本当に頑固で、我儘な人ですね」
天野の言葉に、佐々木は苦笑いしながら席を立ち、カフェを後にした。
「俺は親友じゃないのかよ。御神 貴志……」
天野もまた「友よ」と以前声を掛けてくれた男に嬉しかった気持ちが、今は少し寂しく思う。
だが彼の性格が痛い程分かる為、苦笑いしていた。
「音楽ではあんなに器用なのに、何で不器用な生き方しかできないのかねぇ? まあ、それぐらいハンデを持って貰わないと、こっちも困るけどな」




