61.変わらない愛
静かであるはずの病院の廊下。
とある一部屋から、珍しく怪訝な雰囲気の声が漏れていた。
「今、動けるわけないだろ! まだ1週間も経ってないんだぞ! ちゃんと治してから来いって言ってるだろ!」
「もう大丈夫だから! 置いて行かないで!」
「だから置いていくって何だよ阿呆か。ちゃんと待ってるから」
泣きながら抱きついてくる男の背中を撫でる。
「大丈夫だって。ちゃんと復帰出来る。俺が責任持って絶対もう一回舞台に立たすから。だから今はちゃんと完全に治るまで医者の指示を守れ」
「手が動かなかったら?」
「動くまで付き合う」
「前と同じ音が出なかったら?」
「10年前に戻るだけだ。でもあの頃とは違うだろ? 何も分からなかったあの頃と同じじゃない。必ず復帰させる」
「それでも駄目だったら?」
「お前一人ぐらい養ってやるよ」
「タカシ!」
「大丈夫だって。ゆっくりリハビリして今はちゃんと治すことに集中しろ」
自分の胸に顔を埋め、震え泣く男の頭を優しく撫でる。
「こうなったから言う訳じゃないけれど、いつかは、お前に俺のあとを託そうと思っていたんだ」
「え?」
「ドイツフィルの次期コンダクターをお前に任せたい」
「え?」
驚きを隠せない顔で自分を見つめるユーリに、再度諭すように言う。
「奏者を一生続けるのも悪くないが、いつか自分の音を世界に認めてもらいたいだろ? 世界一のバイオリニストの称号はもう手にしたんだから、次を狙えよそろそろ」
師の大きすぎる夢を語る顔に驚愕し、そして何処までも貪欲に上を目指す師の姿に改めて尊敬した。
「ねぇ、タカシってさぁ誰かに助けて欲しいとか、頼りたいとか思ったことないの?」
前から一度聞いてみたかったことだった。
初めて会ったあの日から、彼が弱い所を見せた記憶は一度たりとも無かった。
あれだけずっと側にいた自分が知らないのだから、そんな姿を一度でも目にした者は絶対いないはずだ。
「助けて欲しいって願って助かるなら、多分何百、いや何千と願ってみたかもな」
笑いながら背を向けた師の細身だが大きく見える背中を見つめた。
「ねぇ? 何でそんなに強いの?」
「強くねーよ。NYにいた頃は多分毎日一人で泣いてた」
「え?」
「三日ぐらい食えなくてさ、やっとの思いで期限切れの固くなったパンを買ったと思った瞬間に蹴られて、泥水に捨てられたりな。あの時の恨みかな? ハハハっ。今の俺を育ててくれたアイツらに感謝だな」
当時、色々大変だったという噂は聞いたことがあったが、10年傍に仕えて初めて語られた師の過去の驚きよりも、そんな環境にも関わらず、自分とは違って頼れるあれだけデカい親を持っていながら、頼らなかった師に何故なのか聞きたい気持ちでいっぱいだった。
だが、聞くまでもなく答えは分かっている。
彼のプライドがそれを許さなかった孤高さ。まさにそれが、彼の強さの原点なのだろうと。
自分が、最上である為に置いた目標と終わらないゴール。
少しだけ分かった気がした。
「ねぇ? 一人で走り続けれる理由は?」
「一人じゃないよ。俺には音楽があったから」
カーテンの隙間から漏れる日差しを背に受け、笑顔でそう言った目の前の憧れは、正に神に見えた。
「やっぱりタカシには敵わないよ」
「お前らさ、そもそも神格化しすぎなんだよ」
「僕の憧れはタカシだから。ねぇ。どうしても付いていったらダメ? 近いし? お願い?」
「今、移動厳しいだろ」
「一人にしないで!」
泣きながら、しがみつく大きな子供の手を振り払うことを出来なかった自分に少し呆れたが、仕方なく胸ポケットからスマホを取り出す。
「離れろ」
しがみつく手をこじ開けるように無理やり剥がす。
◇◆
『プラハホールかホテル近くの病院探せ。決まったら転院手続きして、エアチケット用意しろビジネスを3日以内に』
『ユーリさんのですか? 3枚一緒で?』
『3日以内に病院決まらなければ後便』
『了解です』
◇◆
「タカシ!」
「餓鬼かよ。つったく。転院先決まるまでは我慢しろよ。じゃあな」
「大好きーーーー!」
「二度と後ろを見るな。分かったな? 何があっても俺が引き上げるから。あと俺の為の人生じゃない。お前自身がちゃんと自分の手で幸せを掴め」
あの時、神が「俺についてくるか?」って聞いてくれた時と全く同じ目をしていた。
「Ich werde jede Schwierigkeit uberwinden, weil du bei mir warst.」
(どんな苦労も乗り越えてみせます。あなたがいてくれるなら)
「Ich bringe dich gewiss ins Licht. Folge mir!」
(必ず光りの中に連れ出してみせる)
10年前に交わした時と全く同じ台詞を今でも神が覚えていてくれたことだけで幸せと感謝の気持ちで涙が止まらなかった。
「ごめんなさい。俺あの時……ごめんタカシ」
一瞬でも、彼を永遠に? と、愚かな願いで悪魔の甘い囁きに引きずり込まれた自分の愚かさに涙した。
全て自分の勝手な思い込みで目の前の最愛の人は、あの日から何一つ変わっていなかった。
何て馬鹿なことを……
「もう言うな」
脆くて壊れそうな原石から、最高級のダイヤモンドに成長した教え子の頭を撫でた。
「俺が育てたんだぞ。自信もてよ」
「花音がいるじゃん」
少し、ふくれっ面で自分を睨む男の頭を軽く叩く。
「アイツはまた違うね。育ててみたいと思ったと言うより、俺が聴いてみたいと思った初めての音だ。分かっているはずだろ? お前も」
「嫉妬するぐらいね」
「お前と花音は違う。あいつにコンダクターを目指せとは一生言わないよ」
師は、笑いながら部屋を出て行った──
◇
「何の為に、わざわざロンドンまで頭下げに行って、大金払ってまで独立させたのやら。そろそろ隠居させてくれよ……」
男は笑いながら、ポケットに入れた紙を読み返す。
『eingehende Untersuchung』
(要:精密検査)
「ドイツまで来ても同じかよ……」
男はサングラスを掛け青い空を見上げた後、紙を握りしめた。
そして、そのまま無言でポケットに再び入れた──
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