59.感動を再び
──久しぶりに一人でホールへ向かうタクシーの中、先生の身体のことが心配な気持ちと、私も音楽だけじゃなくて色々な面で、先生に頼りっ放しではなく、自立しないといけないと反省した。
「いつまで学生気分なの?」と、天野先生から以前に注意されたが、本当にその通りだと思う。座席に置いた荷物の再確認をする。
「せめて自分のことくらいは、先生に頼らずに自分でしないとね……」
◇
──ガチャ
「お疲れ様です~~」
「御神先生どう? 桜井?」
天野先生が心配そうな顔をして、直ぐに近寄って来た。
「本人は平気だって言ってるんですけど、本番前までちょっと休んでもらったほうが良いかなと」
「そうだね。ユーリは?」
「詳しくは言わないんですけど、復帰出来ないようなことでは、なさそうですよ?」
「良かった……」
最初は、ユーリさんが握手を求めて差し出した手にさえ拒否していた天野先生も、今ではユーリさんを本当の仲間として認めているし比較的最近は、あの二人がよく一緒にいることに、ちょっとだけ驚いていた。
「天野先生、明日って何かご予定ありますか?」
「何? 何かまた企んでるの?」
天野先生が、少し怪訝な顔を浮かべながら私を見る。
「高科先生も誘って、ユーリさんのお見舞いに行きませんか?」
「そうだねぇ。チェコに移動する前に一回行くかな」
◇
ウィーンでの最終日の演目は、シュトラウスのワルツを中心に、華やかなシーンの幕開けになる。
音楽の都ウィーンにふさわしい演目ではあるが……
「3分速い! 何やってんだよ! 桜井!」
「すいません……」
ユーリさんが抜けた穴に、高科先生がカバーに回った以上、主旋律を奏でる第一バイオリン全員を首席である私が引っ張らないといけない。
ストップウォッチを持って仁王立ち姿の天野悪魔から怒号が容赦なく飛ぶ。
ワルツの優雅さを出そうと思うとテンポが狂いそうになり、そこに気を取られてどうしても遅くなる。華やかな軽快さを出そうとするとつい速くなってしまう。
難し過ぎる。
昔から踊りとか苦手だったのよね……
何度か注意されながらも、何とか総リハが終了した。
天野先生が、チェック表に注意点を書き込んでいるのを見る。
凄っ! 天野先生ってA型かしら?
「天野先生、凄っ! めっちゃ細かい!!」
私の声に天野先生が驚いた顔をした。
「御神先生の最終版を見たことないの?」
そういえば最終チェック済のスコアって見たことないかも?
「一度見せてもらってご覧。勉強になるから」
そんなに凄いんだ……
あの天野先生が勧めるぐらいだから。
◇
総リハ終了後、ピアノの調律も終わり、舞台への立ち入り禁止令が出たところで、先生の楽屋に用意されている軽食を天野先生と一緒に食べていると、ドアを開ける音がした。
──ガチャ
「先生!」
「すいません、お邪魔しています」
「いや、悪かったな。無理言って」
「リハくらいまでなら何とか。たまには御神先生も休んでもらわないと。本番に倒れられたら困りますから」
天野先生が苦笑いしながら言う。
「天野お前、本格的に指揮者目指す気はないのか?」
「ご冗談を。ライトがあたる明るい場所苦手なんで」
「よく言うな。お前」
「本当ですよ? ところでユーリの容態はどうなんですか?」
天野先生の質問に、私も先生の顔を見つめた。
「身体的には復帰までにそんなに長くはかからないと思うが、あとは本人次第だ」
どういう意味?
あの日のユーリさんの演奏って明らかに普段と違ったわよねぇ……
あの後、先生と何を話したのかは分からないけれど。
それから後にユーリさんが……
いったい二人の間に何があったんだろう?
「なるほどね……なかなか大変ですからね。目標がデカ過ぎるから」
天野先生が笑いながら私を見る。
何となく天野先生が言った意味が私には分かる気がした。
先生の強さに憧れはあるけれど……
そこには、どれだけ努力しても辿り着くことが出来ない大きな河が流れていて、それを渡ろうともがけばもがく程、溺れて水の底に足を引きずり込まれそうになる恐怖と不安。
先生ってそういう思いってしたことないのかなあ?
神にそんな思いはないか……
目標が大きすぎると言った、目の前で天野先生がチェックした最終スコアを真剣な眼差しで見ながら天野先生と話している先生が、何処か遠くの世界の人のように見えた……
◇
「姫、参りますよ」
先生がそっと手を差し出す。何度も経験したこの瞬間だが、今日の先生の笑顔はとびきり優しく甘い微笑みだった。
とろけるその笑顔に手を重ね舞台袖まで先生にエスコートしてもらって向かう至福の時間。
「Shall We Dance? Kanon?」
「YES? であってます?」
「行こうか」
先生にエスコートされたまま舞台に上がる。
本来は、全奏者がスタンバイを終え指揮者が最後に舞台に登壇するのが一般的ではあるが、今夜は先生は敢えてそれをしなかった。
そして何と指揮台に向かう前に、私の復帰を観客にアピールするかの如く、観客に手をあげた。
割れんばかりの拍手の中、そっと先生が囁く。
「客と一緒に今夜を楽しめば良い」
にっこり微笑み、軽く私に会釈をした後、全奏者にも軽く会釈をし指揮台へ登壇した。
厳かで美しいホール。金色に輝く音楽の都ウィーンの中心で、世界の御神 貴志と2000人が、今宵シュトラウスの調べにのって、優雅に舞始める。
三拍子のワルツが、ドナウ川のほとりに響き出した。
会場全員がシュトラウスに魅せられた瞬間だった──
音楽をやっていて良かった。音楽家になれてよかった。
こんなにも楽しい時間を過ごせるなんて。
私に音楽を与えてくれた神に感謝した。
ありがとう。せんせ。
再び、この光りの中に戻って来れたことに感動と喜びが抑えきれず1曲目が終わり袖に戻った瞬間、涙が止まらなくなった私に、先生がそっと抱きしめてくれ囁いた。
「おかえり」
「ただいま……せんせ」
そして、ありがとうございます──
先生が終了後に私に何度も謝りながら、「先生が今でも感謝している人」に、報告の挨拶に向かった。
「一緒についてくるか?」と先生には言われたが、二人の大事な懐かしい時間にお邪魔するのは申し訳なく、遠慮した。
先生がはっきり言った「俺のこれからの時間は全てお前のもの」と言う言葉を信じて、彼の帰る場所である私の元へ戻ってくるのを静かに待つ。
◇
「ただいま」
「お帰りなさい。せんせ」
どちらともなく互いに求め唇を重ね、今宵歓喜の夜に溶けて行く──




