56.別離
──久しぶりの心地良い緊張感に包まれる幸せ。
戻って来たんだーー!
たった数日間、離れただけなのに、こんなに恋しいなんて。
「やっぱり舞台って良いですねぇ~~」
木の温もりと、この独特なニスの匂い。天井の高さや観客席との距離感全てが愛おしい。
舞台の床にゴロゴロしてたら、天野先生に呆れられた。
「何やってんの? やっぱり変なもの食べたんじゃない?」
「ひどーーーい! 天野先生ーーー!」
「また、賑やかなのが戻ってきたな」
「高科先生まで!!」
「おかえり」
高科先生、天野先生二人共が、休んでいたことや理由、何も私には聞いてこなかった。
先生が、どこまで話しているかは私には分からないが、何も聞いてこないことが精一杯の両親の優しさだろう。
「ところで貴志は?」
高科先生がキョロキョロしながら、先生の姿を探している。
「デニス会長のところに用事があって行くって。総リハまでには帰るからって言ってましたよ?」
「何か問題でも?」
天野先生が少し心配そうな顔をして、近づいて来た。
「多分、新しいメンバーの方達の処遇だと思うんですけど、気にしてたから先生。来期のこと?」
「なるほどね、一年契約だからねぇ。ドイツフィルに戻れるようにか」
「高科先生と天野先生は、学院にまた戻るんですか?」
「それは、お宅のマエストロ様に聞いて下さいよ。来期も世界ツアーをフルでやるつもりなのか」
天野先生が苦笑いしながら私に聞いてきた。
「やりたいことがあるから。とは言ってましたが、それが何なのか? いつなのかは、教えてくれませーーん」
先生は、何か将来的に考えていることがあることは確かなんだけど、それが何か? は、聞いても「秘密」としか毎回答えてくれなかった。
「なるほどね。今日って『皇帝』だけでしょう? 今から舞台でチョロチョロしてたら、また保護者に怒られるよ?」
保護者って……天野先生。
「あ! ウサギちゃん! 大丈夫なのもう?」
「ユーリさん! 本当にお世話になりました。凄く心強かったです!!」
「タカシとはちゃんと話が出来たようだね?」
ユーリさんが心配そうに見つめる。
「うん。ごめんなさい。ユーリさんにまで嫌な思いをさせてしまって……」
「いや。でも良かった元気になって。ウサギちゃんにはやっぱり何時も笑っていて欲しいから」
ユーリさん?
何となくだけど、彼の顔が……
気のせい?
胸の奥が締め付けられるような感覚?
一瞬襲われたことに自分でも驚いた。
「Ich bin so froh, dass es dir wieder gut geht.mein Schatz.Kanon.」
(本当に良かった。僕の大事な君が元気になってくれて)
「ユーリさん? ドイツ語は分からないわ」
「日本語で言えば手に入るのかい?」
いつもの、ふざけた雰囲気ではなく真っ直ぐ見つめてくる彼の目に、私は思わず見てはいけない気持ちになり……
その問いに答えることが出来なかった。
「本当の愛は、大事な人を困らすことは望まない。ただ笑っている姿が見れたらそれでいい」
「ユーリさん? どういうこと?」
「いや。何でもないよ。ウサギちゃん」
?
「ユーリ。いい度胸しているな」
「先生!」
「タカシ!」
「本気なら堂々と奪いに来いよ」
「タカシ!」
どういう意味??
先生とユーリさんの会話の意味が分からず、思わず二人の顔を見た。
「Ich liebe sie auch, aber ich liebe dich viel mehr als Takashi.Hauptsache, die beiden sind glucklich.」
(彼女のことは好きだけど、僕は貴方のことも大好きだから。君達、二人が幸せならそれで良いんだよ僕は)
「"Lauf nicht weg, Juri. Wenn du es ernst meinst, dann komm und nimm es mir weg!"」
(ユーリ。本気なら逃げるな。欲しいと思うなら俺から奪いに来い)
「ノー! 愛する人が苦しむ姿は僕はもう見たくない! 穏やかであればそれ以上は望まない!」
ユーリさんが声を荒らげたと思ったら、走って出て行った。
「せんせ?」
「ユーリはお前と似ていて、両親が早くに亡くなっている。最初に会ったのは、生きていく為に歳を隠して奴が仕事をしていた頃になる」
「それって……」
「アイツが異常なほど俺に執着するのは、そういった経緯からだ」
「……はい」
天野先生から少しだけ聞いたことがある。半ば亡命に近い形で先生を追いかけてドイツに来て、全ての費用や生活費を先生が面倒みていて、先生の付き人を最初はしていたと。
それから先生に弟子入りし、今のユーリさんを創り上げたのは先生だって。
何となく私と同じ気持ちなのかもしれない。
ユーリさんにとっても先生が全てなんだと。
「せんせ。ユーリさんのところへ行ってあげて下さい?」
「必要ないだろ」
「いえ。私には先生が居ない時、親代わりの高科先生や天野先生、それに由紀様や先生のお父様も居てくれました。けど、ユーリさんには先生しか居ないんでしょう? それに仲間ですから。ね?」
「花音……」
先生は、そっと頬にキスをし、頭を撫でてくれた後ユーリさんが走って行った裏口へ向かって行った。
◇
「ケホっ。ゴホッ」
「ガキが吸えもしないタバコ吸うなよ」
「タカシ!」
ユーリは、急ぎ吸いかけのタバコを足で踏み潰した。
「欲しいと思うなら遠慮せずに来いよ。まあ渡さないけどな」
「知ってる? カノンも好きだけど、俺はそれ以上にタカシを愛しているってことを」
「お前の愛には答えれないぞ」
「結局、僕は誰にも愛されない運命なんだよね。ハハハッ」
金色に輝く髪が風に靡き、空の青さより澄んだ青い瞳から溢れ出た水滴が、地面にポタリと落ちた。
「ちゃんと前を向け。そろそろ俺から卒業しろよ」
「タカシ!!」
男は、幼子のように自分に縋り泣く金色の柔らかな髪を優しく撫でた。
「ユーリ。お前の幸せを見届けないと、俺が引退出来ないだろ」
「え? 引退?」
「いずれはな。育てる方にまわろうと思っている。ドイツフィルを立て直す」
「え? 会長を継ぐの?」
「経営は面倒だからデニスで良いさ。今のままだとドイツフィルはいずれ何処かに吸収される」
「……だからってタカシが背負うこともないだろ?」
「10年面倒をみて貰った恩返しだ。あとは頼むぞユーリ」
「タカシ!!」
「そんな直ぐに引退するわけじゃねえよ阿呆」
「それでも……タカシがいるから今までやってきたのに!!」
「そろそろ俺にも休憩させろよ阿呆。リハ始めるぞ」
ユーリは、最愛の師の背中が涙で霞み歪んで見え、遠くに消えていってしまいそうな不安で泣き崩れた。
師弟愛、そんな言葉ではなく絶望の淵から救ってくれた命の恩人。彼が死ねと命じるなら従う覚悟さえあった。
自分にとって神のような存在。
その神がもうあと少ししか見えないなんて……
◇
「ユーリ! お前やる気あるのか? それで舞台に上がるつもりか?」
珍しく先生がユーリさんを何度も注意する。
本来、本番前の総リハの中、曲の途中で止めることはない。本番と同じように行われるのが普通だ。
それなのに……
私でも分かるぐらいユーリさんの「音」の異変。
「天野、代わりを頼む。ユーリ! 来い!」
先生が舞台から袖へと早足に去って行く。
その後を、ゆっくり追いかけて歩くユーリさんの姿に驚いた。
あんなに普段から余裕で自信に満ちているユーリさんが?
全く別人のようだった。
◇
「プロだろお前? あ? 何年やってるんだ!」
「……タカシが全てだ」
「なら消えろ! 俺は客が全てだ」
「タカシ!」
「二度と俺の前にその面見せるな! 出て行け!」
男は冷たく言い放ち、背を向け舞台に戻って行った。
その姿を見ながらユーリは笑っていた。
「タカシにとって一番はいつでも音楽なんだね……」
誰かに愛して欲しい。
抱きしめて欲しいって最後に言ったのは、いつだっただろう?
ただ、目の前の愛する貴方に──
「上手になったな」と笑いながらあの時、手を引いてくれた温かい手で撫でてくれるだけで幸せだった。
それだけで良かった。
傍に居られたら、自分の愛が一生叶わなくても良かった。
貴方のその笑顔が見たくて、ずっとバイオリンを弾いてきたのに……
「さようなら──」
愛する人……
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