54.悪戯っ子
──空が高くなり、澄んだ空気と心地よい風。爽やかな朝が今日も訪れていた。
淹れたての珈琲の良い香りとともに、今日の始まりを期待する空間──
に、怒号が飛ぶ。
「ワルツに何でしかめっ面だ! 三段目からもう一回!」
「はい」
──昨夜の無事公演大成功のあと、初めて観客席で見た感動と興奮の中、喜びも束の間。
帰りの車の中で、先生からの一言により、夢の終わりが告げられた。
◇◆
「ところで、皇帝とシュトラウスは完璧なんだよな?」
「……た、多分?」
「何か言ったか?」
低い冷たい声が……
魔王様が降臨した瞬間だった。
◇
そして優しい魔王様、あ、いや、神の慈悲深いお導きによって朝からとても有難いお教えが……
「花音。無理して今じゃなくて良いって言ったろ? 次のプラハからで」
「先生!」
「休むのも大事なことだ」
「出たい……」
背を向けた先生の背中に手を伸ばす。
「今の状態で板には上げられない」
背中を向けたまま告げられる神の判決。
「頑張るから! だから! お願い! 先生!」
背中を向けたままの先生に、しがみつき懇願する。
「プロとしての音だと自分の今が思えるのか?」
直球だった。
自分でも分かっていたことを真っ直ぐ聞かれ、答えることが出来ない。それが答えだった。
「プラハに向けて練習しろ」
「先生!」
それだけ、言い残し神が部屋をあとにした。
自分でも分かっていた結果。パッセージ練習含め、ここ数日バイオリンに触ってなかったことだけが理由ではない。
苦手意識と、ワルツ程度ならと……
私のあさはかな驕りである。
「最低だわ。私……」
バイオリンを再び構え、シュトラウスをさらう。
豊かな三拍子のリズムに乗せて。ホルンと管楽器の音に、弦楽器が滑らかに。
──ガチャ
「花音?」
そう、ここはワルツの本場ウィーン! 私は大好きな先生と一緒にワルツを踊る。
もっと私を見て? もっと私をワクワクさせて? もっと私を軽やかに連れて行って? せんせ?
──また、ただ泣いているだけと思って急いで帰って来てみたら、目の前で、ワルツの世界を小さな身体全体で表現している少女に驚いた。
思わず立ち上がっていた。
「スタッカート丁寧に、違う、切るんじゃなくて最後まで。A線離すの早い!」
「テンポ維持しろ」
何度か先生の怒号が飛んだが、何とか最後まで弾くことを許された。
「ありがとうございました!」
「大丈夫か?」
「平気~~」
先生が腕をマッサージしてくれながら心配そうに見つめる。
そんなに弱くないのに……
至福の時間を満喫していると、先生が笑いながら頭を軽く叩く。
「本当に頑固だな。出掛ける用意しろ」
「どこか行くんですか?」
「ドナウ川観光」
「ほんとに? やったーー!!」
◇
「せんせ? この車は?」
「レンタカー。さっき頼んできた」
あ、だから出て行ったのね。怒って出て行ったかと思っていたけど……
「ごめんなさい……」
「謝る必要ないだろ」
笑いながら言う先生に、ほんの少しでも疑った自分の小ささを反省した。
先生が本気で怒る時って、何なんだろう?
「ねぇ? 先生が私に本気で怒る時って何ですか?」
「前それ答えたろ」
黙って出て行ったらって話よね?
「それ以外は? 浮気とかは?」
「したいなら、どうぞ」
「例えばの話だもん! しないもん!」
抑揚のない声で答えられたことに少し反省し、急ぎ弁明した。
「浮気するってことは、その程度ってことだろ。やれるものなら、したら良いよ」
「しませんし……」
「そのかわり追いませんから、覚悟して行きなさい」
それだけは確信している。よそ見を一度でもしたら、二度と先生が戻ってくることはない。
「先生もしたら駄目ですよ?」
「阿呆か。何処にそんな時間があるんだよ」
「それって、時間があったらするかも? ってことじゃないですか~~!」
「何でそういう、くだらない発想になるんだか」
「むぅうううう」
「充分愛情を注いでいますが?」
先生が苦笑いを浮かべ、首に手を回し頬に軽く口付けをしてくれた。
「大好き~~」
「あ! そう言えば大事なことを聞こうと思ってたんだ!!」
「何、急に」
「天野先生の彼女って日本にいるんですか?」
「天野から聞いたのか?」
珍しく驚いた顔をした先生に、びっくりした。
「いるってことだけは……」
だってそれ以上教えてくれなかったんだもん……
「まぁ春になれば分かるだろ」
え? どういう意味ですか?
それって??
先生はそれ以上何も言わず、ただ笑っていた。
「あ! ところで、もう一つ気になっていたことが! ねえ? 高科先生と由紀様って?」
「さあな? いちいち聞かないから」
その顔はやっぱり先生も気づいてたんだ……
「でも、もしかしたらですよ? 将来的にですよ? 高科先生がお兄さんに?!」
「さぁ? 人の恋愛に興味ないから」
先生らしい回答だった。
お兄さんになるかもなのに……
変わらずクールな先生にちょっと驚いたけれど、先生らしい回答だったことにちょっと笑えた。
「何だよ」
「いえ? 先生らしいな。と思って」
「何だよそれ」
この後、魔王様に意地悪されたことは言うまでもない。
「せんせー手繋ご?」
「嫌です」
「せんせーー!!」
「キスして?」
「嫌です」
「襲いますよ?」
「嫌です」




