52.絶対王者
──隣で丸くなって眠る先生の姿を見て幸せになる。たった一日しかも、すぐ隣に居てくれたのにも拘わらず、先生の体温や心臓の音が聞こえない中で寝ることが、あんなにも不安に感じたのが、嘘のように昨夜はぐっすり眠れた。
「おはよ。どうだ?」
「もう大丈夫ですって~」
無理矢理、私の頭の下に自分の腕を入れてくる先生に、嬉しくて抱きつくが再び眠り始めた先生の頭を撫でる。
「あんまり無理しないでね」
◇
「あ? 何でバイオリン持ってるんだよ」
ば、バレたっ! 鋭い!
「ぇ? 一応? 念のため? もし体調不良の人が急遽出たりしたら?」
「出てもカバー出来る人数揃えました。お前が今日舞台に立つことは絶対ないです」
「せんせーーーーー!!」
どれだけ言っても絶対に首を縦に振ることをしない先生にしがみついた。
「明日休んで、様子見て行けそうなら最終日な」
「えええええ? それって明後日も駄目ってことですか??」
「3日目は厳しいだろ」
「弦楽四重奏だからですか?」
「弦楽四重奏『エルデーデ』76の第一バイオリンは重いぞ。今のお前には厳しい。時間長いし立ちっぱなしだから」
「……出たい」
「二時間は許可出来ない」
先生の低い声が降りて来た。
ウィーンでの5日間公演のうち、初日はモーツアルトで少し軽めから入り、オーケストラの定番『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』で閉めた。
それからも、オーストリアの偉大なる作曲家の中からシューベルトやマーラーの曲が選曲される中、三日目は弦楽器総勢約30名によるハイドン作曲の弦楽四重奏の2時間フルコースを先生が選択した。
まさに弦楽器中心の日であった。その中でも第一バイオリンは全弦楽器を引っ張る主旋律を任される重責の為、先生が頑なに反対した。
ユーリさんをはじめドイツフィルメンバーは何度も経験あるベテラン奏者ばかりだ。
先生がそっちを選択する気持ちは分かるが……
「……どうしても?」
「今じゃなくていいだろ? 先はまだまだ長いんだし。これから何度でも経験出来る。今、無理をしてまで立たすことは出来ない」
「先生の指揮で、このウィーンで立ちたい!」
「シュトラウスでいいだろ? なら」
先生が頭を撫でながら諭すように言う。シュトラウスも奏でたいけれど、弦楽四重奏、しかも全員が奏でるのを見学って……
「黙って見てろってことですか?」
先生の目を真っ直ぐ見つめる。
「許可は出来ない」
先生が背を向け、部屋を出ようとした。
「せんせい!!」
「何度も同じことを言わせるな」
「そんなに私じゃ力不足ですか? ユーリさんなら安心ですか?」
「あ? 誰がそんなこと言った? 今のお前の体調を考えたら、無理はさせられないって言ってるだろ」
「充分もう休みました! 自分の身体くらい自分で守れます! 守られるだけの女は要らないって言ったのは先生じゃないですか!! 何でやる前から逃げるんですか!! どうしても無理だと思ったら、自分から降ります!」
初めてだった。
この1年半で先生の命令に逆らったのは。
「勘弁してくれよ……」
先生が額に手をあて、瞼を閉じた。
「どれだけ俺が心配したと……」
大きな窓から差し込む柔らかな黄色い光を浴び、先生の明るい茶色い髪が金色にキラキラと輝いていた。
まるで天使が舞い降りたかのような煌めきの中、美しい茶色い瞳から溢れ落ちるダイヤモンドの雫。
「私に先生の強さと自信を分けて下さい!」
美しいダイヤモンドを指で拭い、先生の頬に口付けする。
「『皇帝』をラストに変更する。『皇帝』とアンコールのソナタ35番のみ。それ以上は許可しない」
「ありがと。せんせ!」
「……最悪。お前」
苦笑いする先生に抱きつき再度頬にキスをしようとしたら、反対に腕を掴まれ、唇を覆われた。
「『皇帝』が辛そうだと判断したら、降ろすからな」
「頑張るもん」
「今は頑張らなくて良いです。大人しくしといて下さい」
先生に頭を叩かれたが、その顔は怒ってはいなかった。
「病気じゃないもん~~それにもう大丈夫だもん」
先生が異常な程心配しているのは、身体のことだけじゃなく私の精神状態のことだろう。
もう何ともないか? と問われたら「何とも思っていない」は嘘になる。
でも起こってしまって、もう終わったことを、ずっと後悔してもどうすることも出来ない。
それに先生はどんな結果だったとしても、気持ちは変わらないと言ってくれた。
その決意の証として先生が託してくれた一枚の紙。今、出来る精一杯の誠意をちゃんと形として示してくれた。
先生との「約束」の日まで私は彼を追いかけ続ける。
先生に肩を並べられるその日まで。
先生とのもう一つの約束。
──世界を取りに行く!
「世界が私を待ってるも~~ん」
「キャっ」
突然抱き上げられソファに降ろされた。
「せ、せんせ?」
「誰に似てそんなに頑固になったのやら」
先生が軽く私の鼻を摘まみながらニヤニヤ笑う。
「それは、師である貴方でしょう?」
「素直で可愛い子だった気がしたんだけどなぁ」
「可愛いでしょ?」
「ムカつくぐらいな」
そっと唇を覆った先生が離れようとしたので、首に手を回し再度捕まえる。苦笑いを浮かべながらも応えてくれた先生に何度も願う。
「お前……嫌がらせかよ」
視線を一瞬逸らした先生の顔を掴み愛しい人に覆い被さるが、スルリと逃げられる。
「どうして?」
「当たり前だろ」
諭すように言う彼の顔を掴み、頬や耳、首筋にと軽く印をつけ、彼の上着のボタンに手を掛けた瞬間、腕を掴まれた。
「花音……」
辛そうな顔をして私を見つめる先生を拒むように続けた。
「じっとしてて。何もしなくていいから」
掴まれた腕から逃れ、再度彼のシャツのボタンを外していく。
彼の美しい上半身が露わになったところに、口付けを段々下へと落としていった。
「やめろ、花音」
先生が低い声で言う。
「じっとしてて?」
少しづつ下に落としていくと、先生が拒否するように身体を動かすが、それを制止するように彼の腕を掴んだ。
「駄目?」
「駄目です」
軽く頭を叩かれ、逃げるように立ち上がった彼の手を取る。
「だって……」
「その気持ちだけでいいよ」
「せんせい……」
「そんなことで変わらないから。言ったろ? そこに重視していないって」
「じゃぁ私が……」
「困ったお嬢さんだな」
「だってぇ……」
「飯食うぞ」
「はい……」
神の最終勧告により、問答無用で抱き上げられ、ダイニングに連れて行かれた。
◇
無理言って、ホールに付いてきたのは良かったが……
「せんせーーこれって監禁じゃないですか!!」
「あ? それが条件で付いてきたんだろ」
酷すぎる……
今日は、先生の楽屋から出ないことを条件に付いて行くことを許可はしてもらったけれど。
本当に監禁と同じで、食べ物、飲み物全てが用意されている楽屋に驚愕した。
「必要な物が他にあれば、佐々木に電話しろ。部屋から出たら別れるからな」
無茶苦茶だ……
「あと、部屋の中も必要以外は歩き回るなよ」
魔王様が奥に鎮座した大きなソファーを指さす。
「勝手に抜け出せると思うなよ?」
こ、怖いんですけど……
魔王様⋯⋯目、怖いから。
──トントントン
「御神先生、照明さんが、って? 桜井? あれ? 何でいるの? 今日休みじゃ?」
「天野せんせーーーーーー」
「な、何。え?」
「魔王に監禁されてるんですぅ~~」
「え?」
天野先生に助けを求めて近づいたら、先生に睨まれた。
「御神先生? これって?」
「病気休暇中につき監視中」
「なるほど。なら御神先生に従います。どうせ出たいってギャーギャー騒いで仕方なく御神先生が連れて来たってとこでしょう」
な、なんで分かったんですか? 天野先生……
「まぁ君の場合、前科あるからねえ?」
そんな犯罪者を見るような目で……
「そんな昔のことを、天野せんせ?」
「あ?」
「黙らっしゃい!」
「あ、代わりに監視しときますから行って下さい」
「頼むわ」
監視って……
何か、そこ二人仲良くなってません?
「いつから復帰して良いって?」
「明日のラスト『皇帝』とアンコールしか駄目だって……」
「なるほどね。まあ、たまにはゆっくり休むのも勉強になるよ」
「……今日はいいとして、明日は出たかったのに」
「今日はいいって。スローテンポ本当にことごとく出来ないよねえ桜井って」
「だって……誤魔化せないし。豊かにとかどうやったら豊かなんですか?」
「君には目の前に最高の師がいるでしょう。叙情は世界一だと思いますが?」
「ユーリさんよりも?」
「比べものにならないでしょう。テクニックだけなら同等に近いかもだけど。場数がユーリの方が今は格段に多いからねぇ練習量含め。それでも御神先生を超えることは難しいでしょう」
「先生ってそんなに凄い?」
「化けもんです。もはや人じゃないから」
「……」
「バイオリンだけじゃなくピアノでも同じで。同じ曲でもまったく違うから。独特の拍取りと言うか。符割り? 1.2拍だったり1.3だったり、微妙に変化するから同じ曲内でギリギリのところ攻めてくるもん」
何となく分かる気がする。
何処がどれだけ違う? って具体的にじゃなく、御神 貴志だけの世界が存在している。
誰も真似出来ない、しかも毎回、秒単位で変化する。
唯一無二、神の領域と言われる、音楽界至高の天才と言われる所以だった。
私に、そんな人と肩を並べれる時が来るのかしら?




