51.小さな恋のメロディー
──着替えも半ばで急ぎタクシーに乗り込み、やっと着いた真っ暗になった夜の病院の廊下を走る。
──ガチャ
「寝たか」
カタツムリの姿を見て安堵し、そっと近くの椅子に座った。
薄暗い部屋の中で、胸ポケットから封筒を出す。
茶色い帯が付いた白い紙の左側の欄に、サラサラと必要事項を書き入れる。
そして封筒に戻し、そっとベッドのサイドテーブルに置いた。
暫く目の前のカタツムリを眺めていたら、もぞもぞ動き出したので撫でる。
その小さな頭を出して、こっちを見てきた。
「せんせ?」
「ただいま」
笑顔で手を出して来た女をそっと抱きしめる。
「どうだ? 身体は?」
「もう大丈夫です。今日の公演は?」
「ちゃんと働いて来ましたよ」
先生の笑顔に安心して抱きついた。
「もう遅いから寝ていいぞ。ここに居るから」
「一緒がいい」
「無理でしょう。ここ病院ですし」
「帰りたい……」
「明日朝まで我慢しなさい。ずっと側に居るから」
「明日先生、公演あるじゃないですか」
「徹夜は慣れてるし、座ったままでも寝れるから大丈夫」
笑顔で頭を優しく撫でてくれる先生の手を取り、瞼を閉じる。
そっとそれに応え塞ぐ先生に抱きつく。
「ごめんなさい」
「もう謝るな。忘れろとは言わないけれど全ては俺のせいだ」
再度優しく抱きしめてくれた先生の瞳に溜まっていた水滴をそっと指で拭う。
辛かったのは私一人ではなかった……
先生と知り合って1年半、初めて見せた彼の涙に、込み上げてくるものが止まらなくなり彼の胸に顔を埋めた。
「正直に答えてね? どっちが良かった?」
「どっちも俺の答えは変わらないから。良かったとは思ってないが、だからといって誰かのせいではなく、きっと今じゃなかったんだなって」
「そっか……」
「俺じゃなくてユーリに先に言ったのはちょっとムカついたけどな」
先生が頭を軽く叩いた。
「あれは違うんですって。気持ち悪くなって目眩がした時たまたまユーリさんが居て……ごめんなさい」
「隠したのは同じだろ阿呆」
「だって……絶対。ごめんなさい」
「そんなに俺って信用ないか?」
先生が笑いながら私の鼻を摘まむ。
首を横に振り抱きついた。
「ごめんなさい……」
ふと目にした封筒の存在に気づく。
「これは?」
「春に日本に帰るまで保管しとけ」
?
先生に言われ、何のことか分からず封筒を開けた。中に入っていた一通の手紙? のような紙を取り出し広げる。
こ、これって!
思わず先生の顔を見る。
「これって……」
「予約しとく。キャンセル不可だぞ」
紙の左半分、全ての欄に埋められた先生の字に涙が止まらなかった。
「半年後に一緒に提出しに行くぞ」
「はい……」
「寝なさいもう」
「先生は?」
「大丈夫だから」
それからずっと先生は寝つくまで優しく頭を撫でてくれた。
◇
辺りが明るくなっていることに気づき、急いで起きようとしたが、ベッドの布団の端に頭をのせたまま眠っている先生の顔を見て安堵と嬉しさ? で涙が流れた。
「ごめんなさい先生」
彼の背にそっと布団を掛け、ベッドから降りようとした瞬間、腕を掴まれた。
「おはよ。勝手に起き上がるな阿呆」
「もう大丈夫ですって。かえろ? せんせ」
「待ってろ、手続きしてくるから」
◇
暫く病室で待っていると先生が戻って来た。
「歩けるか?」
「うん」
先生に手を引かれ、病院をあとにした。
◇
ホテルに着いた途端、リビングルームのソファに座らされる。
「今夜、留守番出来るか?」
「え? 何で留守番なんですか?」
「二日目まだ今日残ってるし、明日が休みだぞ?」
阿呆な子を見るような目でみないで下さいよ……
分かってますよそれぐらい?
「知ってますよ~~出ますよ? 私」
「は? 阿呆かお前」
先生が真面目な顔をして、怒るのでびっくりした。
「え? だってお医者様、昨日だけ安静にしていたら別にその後は普通にして良いって」
「駄目なものは駄目。阿呆か」
「えええええええ!! 行くーーー」
「却下。出るなら最終日な」
「え? そんなに休まなくても大丈夫ですってばああ!!」
飲み物を取りに行く先生の背中を追いかけ抱きつくが、抱きかかえられ元のソファーに戻される。
「取り合えず、今日は駄目」
「ええええええええ!!」
この後、何度も交渉したが、絶対に首を縦に振ることがない先生の背中に抱きつく。
「何回言っても変わらないから」
「……見に行っても?」
「駄目です。寝ときなさい」
「ええええええええ!! 鬼、鬼、悪魔~~~」
「リナに三時間ぐらい公演時間だけ来て貰うからそれで我慢しろ」
「大人しくしとくって約束するからああああ」
「変わりませんから」
「泣きますよ?」
「駄目なものは駄目!」
魔王様の最終勧告が下された。
「ねぇ? 大人しくしとくし、しんどくなったらちゃんと言うから……」
「あ? その話終了。変わらないから」
「………だって一緒に居たいんだもん」
「俺の楽屋から一歩も出ないって約束出来るか?」
「うんうん。約束する!! 絶対でない!!」
「最悪……お前」
先生が胸ポケットからスマホを取り出した。
『ちょっと用意して欲しいものある』
『何ですか?』
『俺の楽屋に一台ソファー長いの入れて。今日の午後のリハまでに』
『え?』
『花とか邪魔なもの全て退ければ入るだろ。あそこなら』
『邪魔って……』
『15時までによろしく』
『ちょ、先生!!』
『ツーツーツー』
「せんせい……もしかして今のって」
「お前の、我儘のせいだからな?」
意地悪そうな顔して笑う先生の顔に驚愕と嬉しさと申し訳なさで……
ごめんなさい……佐々木さん。
◇
「誰がバイオリン持って行って良いって言った?」
こ、怖いから。そんなに睨まなくても……
「い、一応? 念のため~~?」
「必要ないです。予備のが何挺かあります」
くそ……バレたか。
「俺の許可なく一歩でも楽屋から出たら別れるからな?」
せ、せんせ、その脅しはズルくないですか?
目が、こ、怖い。
真面目な顔して冗談言わないで下さいよ……
「冗談ですよねえ?」
「そういう冗談は言わない主義だから」
「……」
「ちゃんと守るのが条件だ」
「……はい」
「ねぇ? リハ見学しても?」
「あ?」
こ、怖いです……
「ほ、本番をちょっとだけえっと……聴くとかは?」
「楽屋にモニター付いています」
酷すぎる……
「せんせいだって……ブツブツ……」
「あ? 何か言ったか?」
「い、いえ。何でも……」
「終わるまで無しな」
「ええええええええ!!」
「そもそも、その約束だったはずですが?」
「せんせ?」
「その手にはのりませんよ?」
そっと瞼を閉じて待ったが、即離された。
「だって………………ぇええ」
「何?」
「我慢出来なくなったら?」
「阿呆」
そっと頭を撫でて頬にキスしてくれる先生に抱きついた──




