50.ショータイム
──大きな紙袋を抱えて病室に入って来た女性に、私達2人は少し驚き見た。
「ごめんなさい~渋滞していて。タカシもう大丈夫だから」
ミシェルさんの奥さんのリナさんが来てくれた。彼女は日系の方で日本語が堪能だったこともあり、私達女性陣を陰ながらサポートしてくれていた。
「せんせ? もう大丈夫だから早く戻って下さい。貴方の居る場所はここではないでしょ?」
「だそうよ? タカシ?」
女二人に急かされ、仕方なく男は椅子から立ち上がる。
「なるべく早めに来るから大人しく寝とけ。じゃあな後で。リナ、ありがとう。何かあったら連絡してくれ」
「大丈夫よタカシ。貴方には何度も世話になったもの。早く行って!」
先生が、そっと頬にキスをしてくれ急ぎ部屋を出て行った。
◇
「ユーリ、貴志は? 帰って来るのか?」
「どうだろ。帰らないつもりじゃないのかな?」
「天野……」
高科は開演まで既に15分を切っている現状の中、これ以上待てない為、全員に事態を話す覚悟をしていた。
「アマノ。入りの合図さえしてくれたら、後は俺がなんとかするから」
「ユーリ、どうなっても知らないからな? 本当にもう……相変わらず人使いが荒い」
天野は、遠い目をしながら悪魔から託された大仕事を全うする覚悟を決めた。
初めて自分に頭を下げた親友に対し、何とか「音楽家」としての彼の精神を繋ぐことだけに集中した。
高科はオケメン全員に現在の状況を説明し協力を求めた。
メンバー全員、船長のいない船で旅に出るという事態に不安の色は隠せなかったが、今までどんなに体調が悪く、ギリギリまで袖で点滴をしながらでも舞台に10年間立ち続け、観客の前で笑顔で居続けた男の「音楽家」としての姿勢を目の前で見てきたドイツメンバー達は、皆が率先して不慣れなアカデミーメンバーのサポートに回った。
◇
遂に船長のいない船の幕が開ける。
天野はざわつく舞台の中、ゆっくり中央まで歩いて行き、メンバーが見守る中、観客の目を一度見回し、ゆっくり深々と頭を下げる。
普段の御神ならこの時点で割れんばかりの声援となり、暫く収まるのを待ち指揮棒を振るというのが最近のお決まりとなっていたが、声援とかわりに観客からのざわつきが収まらない中、天野は指揮台に立つ。
指揮棒を振り上げた瞬間、ざわつきが収まった。
ユーリが口元にそっと人差し指を立て、観客にアピールしたのだ。
日本公演でも行った曲。曲自体は難易度の低いモーツアルトの『キラキラ星変奏曲』がスタートする。
ピアノが欠けた分のパートはフルート数名が急遽カバーに回った。
全員がこの緊急事態を乗り越える為に一丸となって望んでいた。
『キラキラ星変奏曲』のピアノソロにさしかかろうとした、その瞬間だった。
聴こえるはずがないピアノの音が確かに響く。
全員が驚き、一瞬ピアノに視線を移す。
だが天野だけは直ぐに気づいた。母校の独特な解釈で奏でるピアノ奏者の名前を。
かの偉人の聖地であるウィーンを中心とする本場ヨーロッパでは当然敬意を込め、楽譜通りの解釈で演奏されるのが通常ではあった。
だが、エンターテインメントの宝庫である母校の住人は、新しい物が大好きでジャズ風や、ボサノバ風、タンゴ風などに味付けされて、何度も小さな劇場で演奏をされていた。
あろうことか、天性のエンターティナーは、なんとジャズ風で攻めて来たのだった。
天野は内心では頭を抱えたが、学生時代を思い出した。
あの頃は大好きな音楽を仲間達と夜中まで心から楽しんでいた。
大人になって「音楽」は「音学」となってしまい、無難にこなすことを覚えてしまっていた。
今、尚この歳になっても、その楽しむことを貪欲に求め続ける同級生の天才を目にして天野は笑っていた。
そしてその気持ちは高科をはじめとして、ドイツフィルメンバーも皆同じで、何処かでそのワクワクを彼に期待し続けていた。
指揮者として舞台に立つ前から彼のその魅力に取り憑かれた者達は、その興奮を一度味合ったら抜けられない沼に陥っていた。
偉人モーツアルトの聖地ウィーンの歴史ある舞台で、彼の世界的名曲をジャズに編曲してフルオーケストラで奏でると言う前代未聞の試みに酔いしれた一瞬だった。
鳴り止まない拍手の中、ピアノの椅子からゆっくり立ち上がり、指揮台の天野と所へ向かい手を差し出す。その手に天野も応え握手をし、本来のマエストロに場所を譲る。
マエストロに手を取られ、観客の声援に応えながら天野は込み上げてくるものを必死に堪えた。
名声や権力や金ではない。医者一家の末子として産まれ、出来の良い兄に引け目を感じながらもどうしても捨てられなかった音楽への道。
それでも一度は捨てる覚悟で親のレールに乗ったがどうしても諦めきれず、単身海を渡った。
現地で受けた才能の差に、一度は自暴自棄になり後ろを向いたことも。
その時テレビで見た、同い年の少年が初めて大舞台で指揮をするニュース。
子供の頃から何度もコンクール会場で一緒になった超えられない壁の存在が、日本人として初めて歴史あるホールに弱冠19歳で立つニュースを見て、高まる鼓動を抑えられずそのステージを追いかけた。
溢れる「音」の自由に初めて涙が止まらなかった。
それからは、彼と同じ大学で学ぶことを誇りに、彼の背を追いかけた。
そして、その憧れが今、隣で自分を称えて観客にアピールしてくれた。
「佐々木に言って撮影させている。日本に送ってやれよ」
「いつの間に?」
憧れは、何も言わず笑顔で自分の肩を軽く叩いた。
「ありがとう助かった今日は。これでたまには俺も休めるようになったな」
「やめて下さい。もう二度とごめんです」
「この後のアイネクライネも振るか?」
「遠慮しときます」
観客にアピールし終わり、舞台袖に一旦引き上げた男にたずねた。
「桜井は?」
「体調不良で病院に入院中。明日はもう一日休ます。後半はまだ分からない」
「なるほど……オルレアン公妃の見送りは?」
「佐々木とユーリに行かす」
「大丈夫ですか?」
「そんな仲じゃねぇよ」
笑いながら去って行った男の背を天野は見ながら、何となく何があったかを察し、それ以上は何も言わなかった。
◇
無事後半の『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』は予定通り御神 貴志によって指揮棒が振られ、大歓声で終えた。
アンコールの『メヌエット』が終わりさっさと帰って行ったマエストロ様に、全員呆気に取られていたが、姫が不在だった為なんとなく暗黙の了解で皆が滞りなく協力しオーストリアでの初演を終えた。




