49.禁じられた遊び
──この世界でプロと呼ばれるようになって10年が過ぎたが、自分の舞台に穴を開けたことは今まで一度たりともなかった。それが自分の「音楽家」としての責任でありプライドだった。
そのくだらないプライドの為に、一瞬でも大事な宝物を天秤に掛けた自分が許せなかった。
「誰が、何があっても守るだよ。馬鹿だろ」
男はタクシーの後部座席で、消え入りそうな声で呟いた。
渋滞の中やっと辿り着いた病院の入り口で急ぎ降り、廊下を無我夢中で走っていた。
◇
──ガチャ
「タカシ!」
「先生!」
「ごめんなさい……」
彼女の涙で全てを悟った男は、何も言わず病室のベッドで横たわる愛しい女性の頭を撫でた。
「ユーリ、今日の舞台任せたぞ」
「タカシ!」
「天野に代理を頼んで来たが、お前が全員を引っ張れ。頼むぞ」
自分を一切見ず、震える声で言う愛しい師の願いを無言で聞き入れたユーリは、静かに病室を後にした。
「先生ごめんなさい……」
「何で謝る? もう少しゆっくりしなさいって神様が言っただけだ。だからお前のせいじゃない。一人で不安だったろ? ごめん」
「ううん。全く気づかなかった私の責任だし。それに早すぎてまだ……」
「大丈夫だって。一人が二人に増えても俺の気持ちは変わらないし、一生お前達を何があっても守るから」
「せんせ!」
まだ、あどけなさ残る少女の様な顔で自分に手を伸ばす女を抱きしめた。
「先生、もう大丈夫だから行って下さい」
「大丈夫じゃない時に、大丈夫って言うなって言ったろ」
「私だってプロの音楽家ですよ? 大事な人に大事な神聖な職場を離れさす訳にはいきませんもの」
「舞台は何千、何万のうちの一回だけど、俺にとって愛する女は生涯お前一人しかいないから」
先生が、再び強く抱きしめてくれる。
「せんせい! でもそれなら尚更です。私にとっても愛する人は一人しかいないから。その人の使命は全うして欲しいもの」
「良いんだって。もう」
「駄目です! 行って下さい!」
「頑固な女」
「師が頑固なんで、秘蔵っ子も頑固になるんです~~」
やっと笑顔が見えた宝物を再度抱きしめた。
「俺が傍に居たいんだって」
「駄目です! ちゃんと仕事してから来てくださいな? 貴志さん?」
「集中出来そうにないから嫌だ」
珍しく小さな子供のように、少し我儘な顔をした先生に吹き出しそうになった。
「もう~~ 先生! 子供じゃないんだから……もう本当に大丈夫ですから。お医者様も夜には家に帰って良いって」
「この状況で、一人置いて行けるはずがないだろ」
辛そうな顔をして頭を優しく撫でてくれる先生に、本当に申し訳ない気持ちになる。
全く気づかず注意しなかった私の責任でもあるし、早すぎたあまりのアクシデントのようなものと医者からは説明された。誰のせいでもなく起こりうる現象だから気にすることはないと。
ユーリさんが居てくれて助かった。
言葉が分からない私の代わりに、お医者様に色々聞いてくれた。
「せんせ? やっぱり薬飲むほうが……」
「阿呆か。それなら俺が我慢するわ。絶対それはさせないから」
「先生……」
「スタッフ入れて約100人の生活を背負っている以上、今、途中で降りることは出来ない。終わったら、ちゃんと貰いに行くから」
「本当に?」
「適当に籍だけ入れるようなことはしたくない。ちゃんとしたいから」
先生は優しく頭を撫でながら言ったが、その目は真っ直ぐに私を見つめていた。
「……はい。せんせ? それならちゃんと仕事して来てください」
「リナに頼んでみるから。ちょっと待ってろ」
先生がそれだけ言って病室から出た。
直ぐに戻って来た先生は、ほんの少しだけ心配そうな顔をして笑った。
「これから来てくれるって。出来るだけ早めに終わらせて戻って来るからそれまで待てるか?」
「大丈夫ですって。そんなに弱くないですよ?」
「よく言うわ。直ぐ泣くくせに」
「ねえ? 本当のことを教えて? 本当に何も無かったんですか?」
ここ数日ずっと気になっていたこと。過去のことと分かっていたが、それでもずっと頭の片隅にあった。聞いてはいけないと思ったけれど……
「こっちに来て直ぐの時だ。金と野心の為に自分の心を売った男だ。軽蔑していいぞ」
先生が私に背を向け、窓の外を見ながら淡々と語った。
「ごめんなさい……嫌なことを思い出させて」
実家からの援助を一切受けずに中学の卒業式直後に、半ば家出同然で黙って日本を出たって話は高科先生から少しだけ聞いたことはあったが……
単身で誰からのサポートも受けず、海外に住むのがどれだけ大変だったのかは、今の恵まれた環境である私には到底想像出来ない過酷な世界だったと思う。
それが当時の先生にとってどれだけ重い決断で、今の先生を創り上げた経験だったかと思うと胸が痛む。
「隠したいとかではない周知の事実だし。それでも彼女のお陰で今の俺があるのは間違いない。愛とか恋ではないが、俺にとって恩人であることは今でも変わらない。分かって欲しいとは言わないが、生涯で本気で愛した女はたった一人お前しかいないし、これからも一人きりだ。それでも許せないならどうすることも出来ない」
「ごめんなさい辛い思い出を……でも正直に話してくれて良かったです」
当時まだ17歳だった先生が、一人異国の地でアジア人として生きて行く上での苦渋の選択を、軽蔑なんか出来る訳がない。
音楽家を続けるには綺麗事だけでは続けられない現実は、マイヤーさんの件で痛い程経験した。
過去の先生の強さと、忍耐があったからこそ今の私達の楽があるのだから……
高科先生や天野先生も同じことを言っていた。
「今度一緒に挨拶に行くか」
「え?」
「婚約者ですって紹介しに行く」
先生がそっと頬に優しくキスをした。
「先生!」
「まあ、お前が嫌なら行かないけどな」
ありがとう先生。こんなに大事にしてくれているのに、出会ってもない過去に一人で拘っていた自分の馬鹿さにちょっと後悔していると、病室のドアを開ける音がした。
──ガチャ




