4.秘蔵っ子
──部屋の中は静まり返っていた。
誰一人動くことはなく、先程目の前で起きたことをまるで無かったことにするかのような、異様な空気が漂っていた。
「すまない30分休憩で。その後ドボルザークから」
それだけ言って先生が部屋を出て行った。
急いで追いかけたい気持ちはあったけれど、全て私のせいなんだと思うと、その足が止まってしまう。
ごめんなさい……
先生……
──カチャ
「花音、ちょっと」
せんせ?
ドアをほんの少しだけ開けて私を呼ぶ先生に急ぎ部屋を出て、そのまま促されるように隣の教室に入る。
「いつかは、言わないといけないとは思っていた」
先生がいつになく、真面目な顔で私を見る。
その言葉の意味に私は無言で頷く。
クビになる?
ロンドンフィルの首席コンマスの人に比べたら、私なんて……
幼稚園児と大学生、いや、赤ちゃんとプロの音楽家ぐらい差がある。
先生がユーリさんを取るのは当たり前だ。
覚悟は出来ていた。
ユーリさんのパガニーニを聴いた時から。
しかも専門のバイオリンではなくビオラでの演奏だ。
どれだけの差があるかぐらい、私にも明確に分かっていた。
「大丈夫ですよ先生。はっきり言ってくれても、覚悟は出来ています。陰ながら応援します。一観客として今日からは」
私は、精一杯の笑顔で笑ってみせた。
泣かない。私は負けたんじゃないから。
もう一度絶対に勝ち取ってみせる!
目に見える具体的な目標が出来たことに、私は逆に感謝した。
「逃げるのか?」
先生が低い声で私にたずねる。
その目は一切私の視線から逸らすことなく、強い先生メッセージが感じられた。
私は無言で首を橫に振る。
「いえ? 世界を取って見せます!」
──カタンッ
先生が椅子から立ち上がる。
「それを忘れるな。俺の為に弾くんじゃない。そこが終着点じゃないはずだろ? 世界を取りに二人で行くんだろ?」
先生がいつもの顔に戻った。
そう、あの時、先生と初めてのデートの夜。先生に連れて行って貰った地下のレストランで約束した言葉。
私はどんなことがあっても付いて行くと約束した。
もう逃げないと。
「もう逃げないって約束しちゃいましたしね。クビですか?」
先生の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「それだよ。俺がお前に惹かれたのは」
先生が笑いながら言う。
「それじゃわかりません~~何処ですか?」
「俺が帰って来たことで満足してしまうな。そこじゃないだろ? 目標は」
!
なんて馬鹿なことを⋯⋯
先生の言う通りだ。
先生が帰って来た。
先生と一緒にずっと居られる。
先生に褒めて貰いたい。
先生に教えて欲しい。
私の中での目標は、世界ではなく、愛しい人に向けて弾いていた……
「ユーリは性格に難点はあるが本物だ。お前にとって必ず勉強になるはずだ」
「……はい」
「頑張れるな?」
「え? 私で?」
え? クビじゃないの?
先生がにっこり微笑んだ。
う、嘘? あれだけの差を目の前で見せつけられたのに?
「俺が育てたって言ったろ? 生涯でたった一人の秘蔵っ子だからなぁ。見失いそうになったら、連れ戻す」
「せんせい!!」
その言葉に嬉しくて飛びつこうとした瞬間、先生に制止された。
「家でな」
「……ごめんなさい」
「せんせ? ユーリさんを私の指導係につけて貰えませんか?」
「は?」
今の私とユーリさんでは、雲泥の差であるのは明白。先生に教えて貰いたいのは山々だけれど、私の目標は先生にだけ認めて貰うことではない。
世界を認めさせなければいけない。
これ以上、先生の秘蔵っ子として、先生の顔に泥を塗る訳には行かない!
守られる女は要らない。と言って、それでも、ずっと先生に結局は守られていた。
もう、先生の生徒ではない。
同じ舞台に立つ仲間になるのだから。
先程の説明ではユーリさんは日本公演には参加しないと言う。
なら彼が帰国するまでの間、少しでも吸収出来ることがあれば。
今の現状で、ユーリさん以上に適任者はいない。
先生が本物と認める人に私は教わりたい。
「駄目ですか?」
「いびられるぞ?」
先生が楽しそうに笑った。
「やり返すもん」
「浮気しないなら」
「する訳ないでしょう! もう!」
先生が時計を見て無言で部屋を出て行った。
一人、部屋でぼんやり外を眺める。
ほんの少し前まで固かった蕾みが、ほんのりピンク色にちらほらと見え始めていた。
毎年忘れずにちゃんと咲くのよね……
雨に降られても、冷たい雪に覆われても、夏の強い陽射しを受けても、凜として誇る姿に、私は自分の小ささと、くだらない感情が馬鹿らしくなった。
目指しているのは、今の目の前にある「カプリース」じゃない。
私が見ているのは世界だ。
前を向こう。
先生の唯一の秘蔵っ子として胸を張ろう。
──ガチャ
天野先生もユーリさんも部屋に戻っていた。
「大丈夫? 桜井?」
天野先生が、直ぐに私の姿を見つけ飛んで来た。
「有り難う御座います。天野先生。もう大丈夫です」
「か弱き姫は沢山のナイトに守られてるんだね? 過保護なことで」
ユーリさんが私の顔を見ながら、高い位置から笑ったので私はにっこり微笑んだ。
「皆さん大人な男性ばかりなんで、レディファーストなんです。改めて自己紹介しますね。桜井 花音です。及ばずながらこのオケの第一バイオリンを御神先生より拝命しました。宜しく。ビオラのユーリさん」
天野先生が口をポカンと開けている。
先生は無言のままだが、少しだけ笑ったように私には見えた。
「一つ宜しいかしら? バイオリンが得意とお聞きしまして、私の指導をお願いしたいのですか?」
「は?」
天野先生が大きな声を上げた。
「タカシ? オモシロイ子だね? カノン」
「サクライだ。今度言ったら強制送還するぞお前」
「こわ~~い。イイヨ。うさぎチャン。じゃあ賭けるかい? 負けたらタカシから手を引くってのは?」
どう言う意味?
先生を思わず見る。
「Stirb ab!」
(消え失せろ)
先生の怒った顔に、意味が分からず天野先生の顔を見る。
「ライバル出現?? でもないか?」
天野先生が腕組みをしながら悩んだ感じの顔をしたので、余計に気になってしまう。
「あまの」
分かってますって、姫に余計なこと吹き込むなってことでしょう。
貴方にその気がなくても、この方は……
天野には分かっていた。確かにバイオリンの腕だけで言うなら当然、キャリアも経験も豊富なユーリの方が上に決まっている。
それでもあの御神 貴志がわざわざ、ヨーロッパ、いや世界ナンバーワンのユーリではなく桜井に拘った理由。
女として? それはあり得ない。
あれだけ浮世を騒がしてきた男が、たかが高校生相手にルックスで惚れる訳がない。
桜井とユーリ・プリセツカヤの根本的な違い。
それは持って生まれた神からのギフト。桜井にしか出せない「音」だ。
あの汚れない素直で真っ直ぐな「音」。
全身から私を見て、と訴えてくる「音」だ。
去年の春、俺達は初めて「本物の天才」に出会った。
誰も真似しようと思っても絶対にできない「宝」を生まれながらに持った少女。
どんなに練習しても絶対に到達することが出来ない「純粋な音」を持つ唯一無二な存在。
あれだけ無茶苦茶な奏法で、俺たちを「その世界」に一瞬で引きずり込んだ。
桜井本人は気づいてないが、彼女のソレは御神先生の手によって引き出される。
練習時ではなく「本番」で彼女は化けるのだ。
天才と言われるユーリ・プリセツカヤは、御神 貴志の下で修行し、師に仕え、今の彼の地位が確立された。彼にとって「御神 貴志」は師であり、父であり、そして愛する人だ。
彼が、桜井に敵意を明らかにする理由。
単純に大好きな「御神 貴志」を取られたくないと言う嫉妬心だ。
天野は再び頭を抱えた。これから起こるであろう変な三角関係に。




