39.緊急事態(3)
──重かった身体が軽くなったような感覚がして、ゆっくり瞼を開ける。真っ白な世界に少しずつ色が塗られ始めた。
「んっ……ここは?」
「気がついたか?」
白い天井から、ぼんやり茶色い輪郭が少しずつ濃くなり近づく。
聴き慣れた心地良い声がして、目の前に愛しい人の顔が鮮明になる。
「先生。私?」
「気分はどうだ?」
「大丈夫です。何でここに?」
「愛してる」
それだけ言って先生が優しく頭を撫でる。
確か私って舞台にいて、終わって袖に戻り……??
そこから記憶が無かった。
「もう遅いから寝ろ」
先生のその言葉に私は抱きついた。
「大丈夫。いい音だったから」
先生が頭を撫でながら優しい声で囁く。
立ち上がろうとする彼の手を咄嗟に掴む。
「ゆっくり休め今日は」
「お願い!」
はしたないと思われても良い。
それでも今日は先生に縋りたかった……
「ツアーに入る前に約束したろ? もしもを考えて終わるまでは抱かないって」
先生の言っている意味は理解していた。ドイツに来た日に先生から言われていた。
「今日だけでいいから!」
先生の胸に再度抱きつく。
「身体の繋がりじゃないだろ?」
先生の言うことは正しい。それでも私は彼が欲しかった。
不安な気持ちを埋める為に?
彼の信頼が欲しいから?
いや、違う。
一つになりたかった。
軽蔑され、拒否されても良い。
私は自ら部屋着のシャツのボタンを外す。
「花音……」
辛そうな顔をする先生に再び縋る。
「お願いです。抱いて下さい」
先生が優しく唇を塞いでくれた。
彼の体温を確かめるように身を任せる。
優しく気遣うように受け入れてくれた先生。それに応えるかの如く、私は何度も強く彼を求めた。
そんな私の想いを叶えようと、彼は何度も愛を注いでくれた。
何度目かの悦びを得たあと、意識を手放していた。
「寝たか……」
男はそっと布団を愛しい女に掛け、部屋を静かに出る。
◇
『頼みがある』
『どうした? 夜中だろ?』
『助けて欲しい』
男は驚いた。
電話とは言え、あれだけ自分に助けを求めるのを嫌っていた息子がいきなり電話で助けてくれと。
『何があったんだ?』
『詳細は佐々木から送ってある』
『どういうことだ?』
『急ぎで手を貸して欲しい。金貸して欲しい』
『は?』
唐突な申し出に、PCのメールを辿る。
これか! 送信者名のMカンパニーの添付ファイルを急ぎ開く。
『なんだこれ?』
『書いてある通りだ。俺への復讐だけなら勝手にいくらでもすれば良い。でも花音は別だ』
『グラスノーって車か?』
『メインはな。他もあるが』
『舐められたものだな』
『うるせーよ』
『今日中は流石に無理だぞ』
『分かってるよ』
『うちでも調べて動くから。ちゃんと花音さんをお前は支えなさい』
『分かってるよ。ありがとう』
『ツーツーツー』
初めて息子に言われた「ありがとう」のたった5文字に、男は溢れてくる涙を必死に堪えた。
そして、親ではなくその顔は既に「御神グループ総帥」の顔になっていた。
「舐めた真似しやがって……」
男は立ち上がり急ぎ部屋を走って出て行った。
◇
翌朝、予想通りと言って良いほど見事なまでにタブロイド紙の一面に、昨夜の公演内容が面白可笑しく踊っていた。
『御神 貴志率いるオーケストラ空席目立ち失敗か!』※ドイツ語
『御神の時代に終わりを告げる! 神が死亡!』※
『女神を指名するが、その幼稚さに客席から失笑が! ユーリ・プリセツカヤの影に隠れる日本人小娘起用に失敗!』※
『マイヤー嬢の後釜の稚拙な演奏に客席から異例の失笑。あまりに低俗な公演にアンコールの声さえ上がらず。御神 貴志公演失敗する!』※
「失礼だなぁハハハッ。生きてるし」
「せんせ?」
「おはよ。飯食うぞ」
「せんせ……」
沢山のフルーツや、ヨーグルトやチーズやパンなどが並んだテーブルを先生が指さした。
咄嗟に隠した新聞や雑誌が気になったが、ある程度予想は出来た。
ドイツ語と英語が分からなかったことに感謝した。
朝食を食べていると、ドアを叩く音がした。
──ドンドンドン
「佐々木です。先生早くからすみません!」
ドアを開けることなく外で掛ける声に、先生が席を立ち上がりドアの外に出て行った。
◇
「先生、昨夜これが」
「やっぱりな。何人だ?」
「準契約のメンバー全員なんで25です」
「弦は?」
「弦15、管10です」
「クソが!!」
「高科に連絡して花音頼むって。出てくる」
「何方に?」
「古巣に直談判してくる」
「え? ドイツフィル?」
足早に去って行った男の背を見ながら、佐々木は今、自分がすべき仕事へ気持ちを入れ替える。
◇
──トントントン
「桜井、俺だ。高科」
高科先生?
その声に驚き、ドアを開ける。
「高科先生? どうしたんですか?」
「貴志がちょっと用事が出来たらしく、代わりに留守番を頼まれた。天野も直ぐに来るから安心して」
「また何か起こったんですか?」
「ちょっとした機材トラブルだから」
高科先生が嘘をつくときは決まって私の目は見ず、何かしながら答える。
1年間、高科先生と殆ど毎日一緒にいた私がその「癖」に気づかないと?
いつまでも、みんな私を子供扱いして……
もう~~~
──ドンドンドンドン
大きなドアを叩く音がし、ドアを開けに行く。
「ユーリさん?」
「姫、名前を確認せずにドア開けたらダメだよ」
あ!
先生に言われてたんだった!
「流石、いい部屋だねえ~~~」
ユーリさんがリビングテーブルにあった、ブドウを口に入れながら部屋をキョロキョロ見渡した。
「えっと……何の集まりですか?? 朝から皆さん?」
「タカシナ?」
「機材トラブル?」
「ちゃんと本当のこと話してくれませんか?」
「……」
「サクライも仲間では? タカシナ?」
ユーリさんの言葉に、高科先生が少し考えるように俯いた。
「高科先生!」
「昨夜遅くに、ドイツメンバーの半数が脱退の申し出をして来た」
「え? ミシェルさんとかもですか?」
あまりに衝撃的な内容に私は驚いたが、それでも尋ねずにはいられなかった。
「ミシェルやヒューイ、ここにいるユーリや俺達はMカンパニーと専属契約をしている。期間中は他との契約は出来ないが、その分公演が無い月でも給料は保証されている。それは知っているよね?」
「はい。何となくは?」
「でも、ドイツメンの半数は客演扱いなんだ。一応公演を優先すると契約上はなっているが、彼らに不利益が起こる状況が起こった場合は彼らは破棄出来る」
「タカシナ、俺から説明する」
「ユーリ!」
「隠すなよもう」
ユーリさんの声に高科先生が黙る。
「昨日の君の演奏は何ら問題無い。寧ろあの状況であれだけ出来たら充分だ。ただタカシナの言った通り彼らにも生活があり、これだけゴシップで叩かれた団に所属し続けると、次のステップに傷が付くと判断したんだよ」
ゴシップ? 叩かれる?
先生が朝、咄嗟に隠していたアレのことね。
「今日の公演ってどうなるんですか?」
私の問いに二人が沈黙した。
「タカシは?」
「佐々木さんが朝早くに来て……それきり。高科先生知ってるんですか?」
私とユーリさんが高科先生を見る。
「タカシナ!」
「多分ドイツフィル本部」
「ぇ?」
「ま、まさか……デニス会長に会いに?」
「本人から直接聞いたわけじゃないから定かではないが、佐々木さんの話だと直談判してくるってだけ言って去ったって」
「馬鹿な……」
「ユーリさん?」
「ユーリ?」
「タカシがドイツフィル抜ける時、デニスは二度とホールに立てないようにしてやるって脅したんだよ。最終的にグラスノー家とのスポンサー契約をタカシが2年に伸ばしたからデニスが許しただけで、デニスは今でもタカシをドイツフィルに戻そうと考えているはずだよ」
「え?」
「それって、ユーリ?」
「直談判ってことは、ドイツフィルのメンバー貸せってことだろうけど、あのデニスがタダで貸すとは考えられない。デニスが一番欲しいのは、金やグラスノー家じゃなくてタカシ本人だよ」
「それってもしかして貴志アイツ……」
高科先生がユーリさんに詰め寄る。
「タカシが抜けたことでドイツフィルの収益は確実に落ちている。グラスノーと手を組むのはデニスにとっても利害があるんだよ」
「何てことを!」
高科先生が怒りを顕にした。
「自分と引き換えにデニスに会いに行ったかもね。タカシナ、姫を頼む。俺も行ってくるわ」
「分かった。こっちのことは任せろ」
先生が、またドイツに戻っちゃうってこと?
「大丈夫。桜井。貴志が君を置いて行くようなことはもう二度としないから」
高科先生が私の肩を軽く撫でた。
「……はい」




