38.緊急事態(2)
開演時間まで30分を切り、高科の号令によって全員が控室に集合していた。
ただ尚も、船長の姿が見えないことに、船員達も流石に不安な顔を見せていた。
その時だった。
──ガチャリ
「先生!」
「ごめん遅くなった。ちゃんと食ったか?」
「もう! みんな私の顔見たらソレばっかりなんだから!!」
「花音、話がある」
何時になく恐い顔? いや、珍しく先生の表情は固く真面目な顔で私を見つめていた。
その顔に少し驚いたが、廊下に出た先生の後を追う。
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
「今日の公演だが、邪魔が入った」
「え?」
「高科の声掛けとスポンサーのカバーで多少埋まったが、開けてみないと正確な数は分からないが、席に空席が出る」
「え? 完売したんでは?」
先生の説明に意味が分からずたずねた。
「チケット自体はな。マイヤーだ。グラスノー家が大量購入し席を押さえていたのが判明した」
「ぇ? どういうことですか?」
「俺に対する嫌がらせだろ。金銭的にはうちには何ら被害はないが、初演に席がガラ空きになる不名誉を俺に与えたかっただけだ」
「はあ??? 馬鹿なんですか? 1枚2万円ですよねえ?」
「それを捨ててでも、仕返しがしたかったってことだ」
「頭悪いんですか?」
「さぁな。いくらかは埋める努力はしたが空席が目立つ。その中で立てるか? 無理ならユーリを代役で立たす。この状況の中、お前のデビューにしようとは思ってない。全て俺のせいだ。事態が収束してから改めてデビュー公演として宣伝し直す」
「めっちゃムカつくんですけど!!」
「ごめん。俺のせいだ」
先生が私に珍しく頭を下げた。
違う! 私が許せないのは、そんなくだらない感情で純粋な音楽を汚さないで欲しい!
音楽家を馬鹿にしないで欲しい!
そして音楽を愛する者や偉大なる先輩達、偉人を馬鹿にしないで!
「先生! そんな幼稚な話に付き合うつもりはないですよ! ちゃんと立ってみせます!」
私は先生の瞳を真っ直ぐに見つめる。
何も言わず先生が強く抱きしめてくれる。
「酷評されるぞ」
「先生が守ってくれるんでしょ?」
「全力で」
「なら頑張れます」
頬に優しくキスをしてくれた先生に手を引かれ、皆が待つ控室に戻る。
その後、先生からオケメン全員に、今日これから起こりうる事態の説明がなされた。
流石に、その内容に皆が不安と緊張でざわついた。
「それでも、来てくれた方々に私は、感動を届けたいです! だから皆さん未熟ではありますが、私に力を貸してください!」
私は皆に深々と頭を下げる。
「音楽家舐めんなよ! を見せてやろうぜ!」
ユーリさんが皆に声を上げた。
「皆には初公演緊張する中で、こんな事態になったことに申し訳ないが、それでも楽しみにして足を運んでくれる人に、音楽家としてのプライドに掛けて精一杯「音」で返したい。宜しくお願いします」
先生がオケメン全員に頭を下げた。
その姿に、白井さん達含めアカデミーの人達や、ヒューイさん達も涙を流していた者もいた。
初演のドイツに敬意を込めて先生が選んだのは、数多いドイツの偉大な作曲家の中、メンデルスゾーンを選択した。
一曲目の『フィンガルの洞窟Op.26』の後、二曲目に「三大バイオリン協奏曲」の一つに挙げられる『バイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64』を持ってきた。
この『バイオリン協奏曲』では、先生は、私のバイオリンソロに合わせて、ビオラでユーリさんが追うという新しい試みを取り入れた。
ドイツフィルの元首席、現役バイオリニストナンバーワンが初のビオラで、新人バイオリニストとの共演を、観客に披露するという、サプライズを用意した。
私の初舞台を祝うのに、それだけの名誉ある見せ場を用意してくれた先生と、それに協力し毎日遅くまで練習に付き合ってくれたユーリさんに対しても、絶対に逃げることなんて出来ない。
「では、行こうか。姫」
先生が私に、にっこり微笑み手を差し出した。
その手に、私が手を重ねると先生が優しく頭を撫で囁いた。
「お前の為の舞台だ。楽しんでこい」
「はい!」
◇
初演のこの日だけ緞帳を使用し、場内アナウンス共に幕がゆっくり上がっていく。
瞼を閉じたまま、その瞬間を静かに待つ。
薄暗い客席に空席が目立つが、先生が指揮台に向かい歩きだし中央に立って優雅に会釈をした瞬間、ホール全体に溜息が漏れた。
ざわつく異様な空間が一瞬にして「御神 音楽」の世界に引き込まれた。
先生が指揮台に立ち、指揮棒を持ち腕を振り上げた瞬間、優雅なメンデルスゾーンに包まれた。
最初の『フィンガルの洞窟』が何とか無事終わり、一旦休憩を挟み皆がこの緊急事態に安堵していた時、その思いは崩れ落ちた。
2曲目の本日の目玉である『バイオリン協奏曲』が始まり、私とユーリさんにライトが集中した瞬間、あろうことか「クラッシックの本場」であるヨーロッパそれも歴史あるこのドイツで格式あるホールで一部の観客から「野次」が飛び交った。
ユーリさんが明らかに怪訝な顔をして私を見る。
先生の表情を見るが、普段と変わらない。彼の小さな頷きに応えるように、ユーリさんに微笑む。
音楽家舐めんなよ!
メンデルスゾーンの『バイオリン協奏曲』は、バイオリストの夢でもある。
この曲のソロパートを、大舞台で奏でることが出来る者、その栄誉を与えられる者は世界でも一握りしか居ない。
小ホールはヨーロッパには沢山あるが、2000人以上を収容出来、しかもそれを全席埋めることができる団体は限られている。
歴史あるこの美しいホールの舞台に立つだけでも、凄く栄誉あることなのに、先生が私の為に用意してくれたデビューの花を枯らすことなんて出来ない!
オケメン全員の今までの練習や想いを背負い、全身全霊を掛け、その音に魂を込める。
神聖な私達の戦場を汚す者は何人たりと許せない!
──お、終わった……
静まり返る空間に異様な空気が漂う。
席を立つこともなく、先程までの野次が再び起こるわけでもなく、感嘆の声が出ることもなく、拍手もない。
そんな中ユーリさんがにっこり微笑んで優雅に私の手を取り、軽く腰を落とし、手の甲に軽く口付けをした。
その瞬間、先生が指揮台から降り、私とユーリさんの手を取り、観客にゆっくり頭を下げた。
先生とユーリさんに手を引かれ舞台を後にする。
「先生、ごめんなさい……」
「いや、最高だった。デビューおめでとう」
先生がにっこり微笑んだ。
その瞬間だった。天井が墜ちてくるような感覚に襲われ、意識を手放した。
「花音!」
「サクライ!!」




