26.光の向こうへ(1)
昨夜遅くまで降り続いていた雨もすっかり止み、朝陽が眩しく、見事な五月晴れとなりまさに今日のこの日を天気までがお祝いしてくれているようだった。
「せんせーーー弦見て!」
「昨日見ました。大丈夫だって一応数挺用意してるから、スタッフが切れても直ぐ張替えするし」
「何でそんなに、余裕あるんですか……」
優雅に珈琲を飲んでいる姿にちょっとムカついた。
「何年もやってますから」
長い脚を組み替えて笑いながら言う先生の余裕さがちょっと羨ましかった。
「もう荷物全部用意してるんですか?」
「衣装は昨夜運んだろ。他に何が要るんだよ」
「何が要ります?」
「要らないだろ。どうしてもの時はスタッフが買いに行くし、海外公演じゃないんだから」
それはそうですけど……
「先生って緊張とか無いんですか?」
「17の餓鬼の頃から舞台上がってますから」
しかも海外で一人でですものねぇ……
「プラハの見ます? 私の宝物の!」
「結構です。恥ずかしくて見られません」
珍しく先生が遠くを見つめながら苦笑いした。
「ええええ? あれ最高じゃないですか!!」
「人生の汚点です。あれ音源そのままだろ最初のって。あの日、体調悪くて吐きそうだったんだよ。確かカナダかな? 前日夜遅くドイツ戻って、そのまま連行されてブチ切れそうになりながら堪えた記憶しかないわ」
「えええええええ! あのカプリースを私はずっと聴いて育ったんですから!」
「育ったって……もう10年前か。プラハにいつか立たせてやるよ」
「え?」
◇
「心臓が口から出そうってこういうことを言うんですね……」
「心臓が口からは無理ですよ花音さん」
「……手握ってて貰っても?」
先生の顔を見るが、普段と変わらず笑っている。
開演時間まであと三時間……
リハーサルが終了し、全員が食事を済ませ着替えや最終チェックを行っている。
マエストロ様である先生の控え室にお邪魔しているが、入れ替わり立ち代りで色々な人が指示を仰ぎに来ていた。
──トントントン
──ガチャリ
「おめでとう貴志、花音さん」
「由紀様~~~~~!!」
思わず抱きついた。
「あら、今日は随分大人っぽい衣装ね?」
由紀様が先生を見て笑っているが、先生は何食わぬ顔のまま雑誌を見ている。
本当に全くいつもと変わらない先生にちょっと驚く。
「お父様来るわよ。貴志」
「は? 何しに?」
「何しにって、演奏を聴きに来るんでしょう。クラシックコンサートですもの」
由紀様が鈴を鳴らすような声で軽やかに笑った。
「花音さん、ちょっとだけ貴志借りるわね?」
由紀様がにっこり微笑んで私に会釈する。
「専務の永石さんがお呼びよ、貴志」
「めんどくせーーー」
「お仕事です。行くわよ!」
ぇ? 由紀様?
いつも穏やかで温和な妖精のような由紀様のお顔が、ほんの一瞬怖かった。
うん。やはりこの人が一番、御神家ではボスなのだ。と今はっきり分かったような気がした。
お姉さまに連行され先生が居なくなった部屋で一人で留守番しながら、先生が読んでいた雑誌を手に取る。
うん、読めない。
英語ではないことだけが分かった。
──トントトン
「御神先生。調律師さんが終了したから見てくれって」
天野先生?
私は聞き覚えのある声に、ドアを開けた。
「うわ。びっくりした! 御神先生は?」
「さっき由紀様がいらして、専務さんって言ってたから御神グループの人かしら? その方が呼んでるからって連れて行かれましたよ」
「あちゃぁ。思ったより早かったか……」
天野先生が残念そうに肩を落とした。
「一緒に待ちます?」
「抹殺されたくないから遠慮しときます」
「抹殺って……帰ってきたら天野先生を訪ねるように言ったほうがいいですか?」
「うーーん。時間的に一応、代理で俺が立ち会うって伝えといて、早く帰ってくれば見に来てほしいけど、17時過ぎたら音鳴らせないしねえ」
そっか、バイオリンと違ってピアノって舞台の上にあるから上がれないのかも。
「軽食しっかり食べた?」
「えへへ~~貰っちゃった~~」
先生にと用意された、スポンサー様からのお弁当を私が先生から頂いたのだ。
「御神先生ってそういえばオケの前食べないんだっけ?」
「昼ご飯食べたら、食べないそうです。食あたり起こしたり何かあったらいけないからって」
「流石のプロ意識! で、姫は気にせず食うと言う」
「だって先生が食べとけって五月蠅いんだもん」
「なるほどね、腹減ると君の場合、音が小さくなるしね。流石よくお分かりで」
「そんなに違わないと思いますが……?」
天野先生が呆れた目で私を見る。
やっぱり最近冷たくなったような気もする……
「天野先生って、先生帰って来てから私に冷たくないですか?」
「冷たくって……御神先生が居ない間の子守役ですからねぇ元々。姫を守る王子がいるのに、もう必要ないでしょう?」
「でもあんなに心配してくれたのに……ツィゴイネルの時」
「あれ、酷かったよなぁ。御神先生。あれだけ練習したのに、結局本番全部一人で持って行ったし。昔からああいう人なんだよ。あの人は」
「あ? どういう人だって? 天野よ?」
「先生!」
「御神先生!」
「せんせ。天野先生が居てくれたから、一年頑張れたんですからね?」
先生を少し睨む。
本当にそうだ。天野先生と高科先生がずっと傍で支えてくれたから、先生に会えない間も負けずに練習が続けられた。
「分かってるよ」
珍しく先生が素直に認めた。
「あーー調律師さんが終わったから音見て欲しいって」
「付いてくるか?」
「いく~~」
「上着ろ」
先生が上着を掛けてくれた。
「ありがとうございます」
◇
調律師さんと天野先生と、先生と三人で音を試している。
舞台上では最後のチェックが入念に行われていた。開演まであと2時間。
このホールに立つこと自体は初めてではないが、全て学生として学内発表会でしかない。
もうすぐ私の初めての本物の舞台、世界への第一歩となる記念すべき舞台の幕が上がる──




