12.浅墓
本日は魔王様、いや先生は朝から打ち合わせの仕事があると言うことで早い時間から出かけてしまいました。
一人残った部屋でぼんやりしていたが、やはり気持ちは落ち着かず、先生にもキツく言われている練習時間の上限を超えないようにとの言いつけを守りたいのは山々なんだけど……
練習用のバイオリンを手に取る。
あーーーーーー
ユーリさんの音が耳に残ってしまい……
次元の違いを見せつけられたショックと、悔しさで力が入りすぎて弦が切れてしまった。
最悪!
練習用の他のバイオリンが無いか? 先生の書斎のドアに手を掛ける……
が、……流石勝手に入るのもなぁ……
諦めてリビングに戻る。
先生から譲り受けたガダニーニは防犯の為、学院に毎日置いて帰っている。
以前使っていた先生に借りたままのは、今メンテナンスに先生が出してしまっている。
「ちょっと早いけれど学院に行こうかな……」
急ぎ準備をして、弦が切れたバイオリンを持って部屋を出た。
「一応先生に連絡しとこっと」
◇
久々に学食で早めの昼食を食べた後、学長室でバイオリンを取り練習場に向かう。
あれ?
もう人がいる?
パッセージ?
「失礼しま~~す」
──ガチャ
「ユーリさん?」
「ウサギちゃん? 早いね? タカシに追いダサレタ?」
楽しそうに笑いながら私の顔を見る彼の顔にムカついたけれど、先程廊下から微かに聴こえてきた恐ろしく完璧なパッセージの繰り返しの方が今の私には興味があった。
「パッセージ練習? 一緒にしてもいいですか?」
「邪魔しないなら」
無言のまま二人でシュラーディックを只管二人で、黙々と進めていく。
メトロノーム無しで機械のように一音一音が、全て同じ大きさで的確に刻まれ続ける彼の音に驚愕する。
パッセージだけで、既に一時間以上経過していた。
凄い集中力……
世界ナンバーワンと言われる人の次元の違いが改めて分かったような。
それに遅れまいと懸命についていくが、腕が痺れてきた。
家でも練習していたのがちょっと影響したのかもしれない……
「痛っ」
──カラン
やばっ
握力が……
弓を落としてしまった。
そっとしゃがみ弓を拾おうとしたが、指先が痺れ握ることが出来ない。
「サクライ?」
ユーリさんの音が止まった。
「手!」
震えている手を見てユーリさんが声を上げた。
急ぎ私の腕を握り、真剣な顔して摩り続けてくれるユーリさんに、ちょっと驚いた。
「腱鞘炎にはなってないと思うけど、ちゃんとマッサージ受けに行くべきだね」
「ごめんなさい……ありがとう」
懸命に摩り続けてくれるユーリさんに、申し訳なく謝った。
その時だった。
──ガチャ
ドアが開いた瞬間、時間が止まる。
確実に目が合ったのに無言のまま、何事もなかったかのように椅子に座る先生。
先生が入って来た瞬間に私の腕から手を離したユーリさん。
ユーリさんがすっと立ち上がる。
「違うんだ。タカシ! パッセージ練習してて、サクライが腕を痛めたようで、それでマッサージを!」
ユーリさんが先生に訴えかける。
「見ればわかる」
冷たく無表情で放った先生に、ユーリさんが近づく。
「タカシ! 腱鞘炎になりかけたんだよ! 心配じゃないのか!」
「自分のコンデション管理もまともに出来ないとは学生以下だな。どうせユーリのパッセージに付いていこうと無理したんだろ。今日は帰りなさい。帰りに病院いけ」
先生が立ち上がり部屋を出ようとした時、ユーリさんが追いかけた。
「タカシ! 自分の女だろ! 何でついて行ってやらない!」
「あ? 俺が行けば治るのかよ?」
「タカシ!」
──パタン
「Das soll ein Freund sein!!」
(それでも彼氏か! クソッ)
ユーリさんの声を無視して、そして私の顔を一度も見ることなく部屋を無言で去って行った先生の背は、冷たく遠く感じた。
ユーリさんが私のところに戻ってきて、心配そうな目で見る。
「サクライ? だいじょうぶ? タテル? つかまって」
優しくしゃがんで私に肩を貸してくれるユーリさんの姿は、あれだけ私達、いや私に対して敵意を剥き出しにしていた同一人物とは思えないぐらい真剣な顔で私を見つめる。
「ごめんなさい。私のせいで……ユーリさんにまで嫌な思いを……」
「ビョウインついて行こうか?」
私はユーリさんに首を横に振る。
彼の気持ちは嬉しいけれど、今は一人になりたかった。
先生に………
馬鹿な私……
大事なガダニーニの保管を由紀さんにお願いして貰うことだけをユーリさんに頼み、私は逃げるように練習室を出た。
今は、あの部屋に一秒でも居たくなかった……
一人になりたかった。
◇
先生に言われた通り病院に寄り診断を受けた。
幸い骨に異常もなく、ユーリさんの咄嗟の的確な応急処置のお陰で炎症程度でなんとか済んだ。
タクシーに揺られながら行く当てもなく、告げた住所は先生のマンションだった。
離れたくなったらちゃんと言えと。黙って出て行くなと言われた約束。
そして、出て行けと言われるのを一人で待つ為の暗く広い部屋に着いた。
先生の匂いが詰まった寝室のベッドで布団を頭から被る。
止めどなく流れ続ける涙を隠すように……
もう二度とこの匂いに包まれることがないと思うと……
腕の痛みより、ズキンと締めつけられた胸の痛みのほうが何倍も痛かった。
ごめんなさい。
先生……
◆◆◆おまけ◆◆◆
シュラーディック:バイオリン用、指使いなど規則訓練教本。プロでも毎日使います。ピアノのハノンと同等。




