第58話 魔術書探究クラブ(12)
アシュリーの母親はいまから二年近く前に病に倒れ、半年ほどの療養の甲斐なく亡くなった。母親はアシュリーを病床に呼び、遺産についてすべてをまだ幼い娘に伝えた。死期を悟り、本当にその後の娘の行く末を心配していたのだろう。
「お母さまは……わたくしが、自分でどう生きるか考えられるようになるか、助けてくれる大人に相談できるようになったら……“ざいさん”を自由に使えるようにするって言いました」
小柄なソフィアよりも、さらに一回り小さな手でカップを取って口に運び、ふうっと一息吐いたアシュリーは、彼女に寄り添うように隣に座ったソフィアを見上げた。
「無理にお話ししなくてもいいんですよ」
「いいえ」
「君は、母君の財産を信託で相続しているね」
「はい、シュタウヘンさま」
コンラートに答えるアシュリーは、十歳の少女と思えないほどしっかりしていた。
父親の期待に応えるのと、子爵であるアルドリッジ家でも過ごしている影響があるのだろう。アルドリッジ工房の創始者が彼の娘に遺したものはささやかなものではないだろう。アシュリーはその孫娘として一族の財産の一部を受け継いでいる。
それはともすれば、十歳の少女の立場やその身体を非常に危うくさせるものだ。
「お母さまに、ぜんぶ教えてもらっています。十八才になるか、十三才にお母さまの通った寄宿学校へ入学しないと、“ざいさん”は誰も自由に使えないの」
つまり正確には、アシュリーが成年になるか、母親と同じ寄宿学校に入学が相続条件となっていて、信託財産は管財人が管理し、誰も触れないようになっている。
「でも、わたくしを大切に“よういく”してくれる人に、毎年五〇〇ポンドのお手当が入るから、なにも心配する必要はないわって、お母さまは言っていました」
五〇〇ポンドといえば、法律家や有名医師の年収にも匹敵する。貴族のような贅沢はできなくても、中流上の家庭に暮らす娘として、不自由のない暮らしをするには十分な額だ。
手当というからには、毎年発生する利息の一部なのだろう。
それより大きい額であろう残る利息は、誰も、アシュリー本人すらも手をつけることはできない。アシュリーが自由に処分できるようになる日が来るまで、信託口座に年々積立られ、運用されるようになっている。
「すごい話だな……」
「そうですね」
コンラートが片手で口元を覆って呟き、ソフィアも相槌を打った。
十歳の少女が、莫大な財産を相続していることは間違いない。
そして、彼女の母親がいかに注意深くアシュリーに財産を残したかも察せられた。
アシュリー自身も財産そのものに手がつけられない以上、アシュリーの養育者は彼女を大切にするしかない。
唯一、表立って支払われるのは養育手当のみ。
管財人によって監督されていて、不審な点があれば支給は停止されるに違いない。
「養育者は、お父様のコリガン講師ですよね?」
ソフィアが尋ねれば、アシュリーはこくんと頷いた。
「お父さまは、お母さまが死んで……お家にいることが少なくなって、本がたくさん届くようになって、本ばかり見ているの。“アシュリーをりっぱなレディにするためたくさんお仕事する必要があるんだよ”って言うけれど……」
以前いた乳母も、家庭教師も辞めさせられて、新しい家庭教師はとても厳しい人に変わった。礼儀作法もしっかり覚えるためと説明されたが、とても寂しかったとアシュリーは話した。
当然だ。母親を失ったばかりで、当時はまだ八歳の少女だ。
話しながら当時の気持ちを思い出したのか、しょんぼりしたアシュリーの背中をソフィアは撫でた。
ソフィア自身は、同じ年頃、囚われの身から解放されたばかりで感情を失っていたけれど、その後、コンラートにひどく甘えるようになった。
拠り所となる人が側にいない時の寂しさはよくわかる。
「お母さまが……お母さまが死んだら、お父さまは変わってしまうかもしれないって。だからもしお父さまが怖くなったら……アルドリッジのお祖母さまのところへ行きなさいって……」
目の縁にじわじわと涙を滲ませながら、アシュリーは小刻みに肩を振るわせていたが、ぽろぽろとやがて涙はふっくらした頬から零れ始めた。
「……お祖母様も、おじさまも好きだけど……でもお父さまも好きなの……っ……でもお祖母さま死んじゃう……」
ソフィアとコンラートは、アシュリーがここにやってきた本当の理由がわかった。
ずっと悩んでいたけれど、それを打ち明けられる人が、相談していいと思える大人がいなかったのだ。
第三者で、魔術のことも知っているソフィアとコンラートと知り合って、二人が自分に気を配ってくれていると感じてくれたのだろう。
「アシュリー、落ち着いて。もう少しお茶を飲みましょう。お菓子もありますよ」
「う、ぅぅ……っ」
まだ十歳だが、厳しい教育を受けているアシュリーは嗚咽しながらも、スカートのポケットから小さく折りたたんだハンカチーフを出して、目元に押し当てる。
偉いなと、ソフィアは思った。
きちんと自分のことも周囲の大人のこともわかって、色々と考え悩んでいるのだ。
『魔術書探究クラブ』の少年達から向けられる親しみに対し、微妙な温度差がある内気な態度でいたのも仕方ないだろう。
少年達に悪気はないが、少女が抱えるにしては大きすぎるものを抱えている。
なにより気の毒なのは、父親とも親子間の愛情に温度差がありそうなことだ。
「……もう……だいじょうぶ、です。ごめんなさい」
見守っているうちに、少しずつアシュリーは落ち着いていった。
しばらく経って、大きなため息をついたアシュリーは焼菓子をつまんだ。二枚に薄く切ったスポンジケーキの間に、プラムのジャムとクリームを塗って小さく切ったものだ。
「おいしい……」
「アシュリーのお土産も美味しいですよ」
話し出す前にコンラートが切り分けてくれた、アルドリッジ家のシェフが焼いたパウンドケーキをソフィアも食べて、ふふっとアシュリーに笑いかける。
アシュリーも小さく笑顔を見せた。
「……お祖母さまとおじさまは、お父さまのことがあまり好きではないみたい」
「どうして?」
「お祖父さまは魔術が好きだったから、お父さまのことを気に入って結婚をゆるしたけど、よくなかったって言ってるの……でもお母さまは、お父さまをとても好きになったのですって」
話しながら、母親と父親の恋愛については少しうっとりした表情になったのは、やはり憧れがあるのだろう。
ソフィアも初恋が訪れないかなと思うことはあるので、少しわかる気がする。
いまひとつ心奪われる人が現れない。
「女の子って恋の話になるとふわふわするよね」
「当然です」
「当然かあ」
「お二人は“こいびと”ではないの?」
「フィフィのことは大切だけどね」
「師匠はいい師匠ですよ」
「ふうん」
頬に手を当てて、首を傾げるアシュリーは少し落ち込みから立ち直ったようだ。
色々抱えていた思いを吐き出して、すっきりもしたのだろう。
「とっても仲がいいのに」
アシュリーはなおも不思議そうにしているが、ソフィアにとってコンラートは自分よりずっと大人の、ただただ大好きな魔法使いで、尊敬する師匠だ。
大好きでずっと一緒にいたいけど、コンラートはきっとソフィアが一人前になるまでの保護者のつもりでいるだろうし、たぶんあるに違いない恋のときめきみたいなものもない。
「僕たちのことはともかく。アシュリーはいまのままがいいのかな?」
「はい……」
横道に逸れてしまった話を、コンラートが元の道筋にもどすと落ち着きを取り戻したアシュリーはお茶をこくりと飲んで頷いた。
「十三さいになったら、お母さまの行っていた学校に入って、ひとりだちするの……お金もたくさんあって、学校を卒業するのは十八さいだから……きっとできると思う……」
「ああ、それで母君の母校を目指しているのか」
「お母さまが、“アシュリーを助けてくれるいい先生がいる”って言っていたし……」
母親の母校にはきっと、母親が信頼している教師かだれかがいるのだろう。学校が生徒となったアシュリーを守ってくれると確信しているからこその条件だ。
それにしても、まだ幼いのに、本当に自分の人生をきちんと考えているアシュリーにソフィアは驚いた。
両方共好きだから、両方とも距離を取って付き合える方法として考えたのだろう。
そこまで自覚しているのかはわからないが、そうしないとどちらかを選ばないといけないと感じているようだった。
「アルドリッジのお家に行ったら、むずかしいと思う……」
そうかもしれない。
きっとアルドリッジ家の令嬢として養育されるだろう。
可愛がれつつも、成長するにつれて親族が納得のいく振る舞いを求められるようになるはずだ。いま、父親からそうであるように。
「アシュリー、まだ心配事があるのじゃないかな」
「え……」
「とても不安がる子が側にいた時があったから、わかるんだ……」
「……」
優しい魔法使いの表情で、とても気遣わしげに尋ねたコンラートにアシュリーは口をつぐんだ。
「……ないです」
「本当に?」
「……はい」
なにかありそうではあったが、それ以上少女を問い詰めることもできない。
そう、とコンラートは引き下がった。
「そうだね。アシュリーにはコリガン講師やアルドリッジ家の人とは違う、相談できる大人が必要だと思う。管財人の人が誰かは聞いてる?」
「“かんざいにん”の人ですか……? “お母さまのべんごし”です」
「母君はとても注意深い人のようだから、きっとアシュリーが成長して連絡を取ってきたら相談に乗るように頼んでいると思うよ。中立でいてくれる人を選んでいると思う。連絡先はわかる?」
「はい、お屋敷に帰ったらわかると思います」
コンラートの助言に、少し元気を取り戻したアシュリーを見てソフィアもほっとする。
「困ったことがあったら、僕たちも相談に乗る」
「本当?」
「もちろんです。アシュリー、お茶も楽しみましょう」
ソフィア達の言葉に、ようやく子供らしい顔を見せてアシュリーは「うん」と頷いた。




