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第52話 魔術書探究クラブ(6)

 ぐすっぐすっと泣きながら、小さく細く握った手で目元を擦る少女の顔を、黒髪で黒マントを羽織った魔法使いが覗きこむ。

 少女を気遣う憂い顔も秀麗な美青年。紫色の瞳が艶やかな宝石のように綺麗だ。


「まだ泣いているの?」

「だっ……て……」

「しばらく離れるだけだよ。アルビオンに魔術の勉強に行くんだよ」

「どっかいくも……やっ、やだぁッ、コンラぁ……と……ぅうっ」


 少女は嫌だった。

 ずっと一緒で、魔術や色々なことを教えてくれると思っていたのに。

 呼べばいつでも駆けつけると言ったのに。

 遠くへ行ってしまうという。

 何日も列車に乗って、少女が見たことがない海を渡った遠い国へ。

 そこはルドルフシュタットとは違う魔術大国なのだと。


「ゾフィー、コンラートと泣いたままお別れでいいのかい?」


 困りきった顔で、銀髪に琥珀目の少女とそっくり同じ色を持つ父親が宥めてくる。

 彼は一国の王ではあるが、少女に甘い父親だった。

 泣きじゃくる王女を叱責することはない。

 父親だけではない。少女の姉も、三人いる兄も、少女が住む宮に仕える者達も皆、少女に優し過ぎるほど優しい。

 泣いている少女に、無理もないといった表情を浮かべている。

 生まれてすぐに誘拐され、八歳の時に救出されて、王城に戻って二年。

 皆、少女に言う。「大変な目に遭っていたのだから」、「これからは幸せいっぱいでなければおかしい」と。少女は気遣われ、慈しまれていた。

 魔法使いはそんな中で、一番少女の近くにいた人だった。


「……お別れ、しないも……も、ぅぅぅ……」


 少女にとって、彼はこの世界の支えだ。

 嫌だ、とにかく嫌だった。少女の嗚咽は止まらない。

 本当は少女だってわかっている。こんなこと言ってはいけないことだって。

 どんなに泣いても行ってしまう。

 だけど魔法使いは約束した……少女はもう、どうしていいかわからなかった。

 初めての、どうにもならないことへの執着や切なさ、悲しみ、憤りといった感情に翻弄されていた。


「そんなに泣いたら疲れてしまうよ。僕のお姫様」


 落ち着いた柔らかな声音と、優しく涙を拭おうとする指に、ひっくと少女はしゃくり上げる。


「だっていやだもっっ……っうぅ、っく」

「困ったな」

「こん、らぁぁと……しかっ、ひっ、ぃ、ぃらないい……っ……」

「でも僕はね、姫様に僕以外にも好きなものをたくさん作って、たくさん笑って楽しく過ごして欲しい。教えても欲しいかな」

「っ……おしえ、る……?」

「姫様が好きになったもの。大事にしようと思ったもの、他にも色々……姫様の世界のことを」


 嗚咽しながらも少女は少し静かになって、魔法使いの言葉に耳を傾ける。


「わかるよね?」

「……わ、かる」


 少女は、魔法使いに抱きついた。

 魔法使いはされるがまま、これ以上ないほど優しい声で少女に囁きかける。


「いつだって、姫様のことを思ってる」

「また、会える……?」

「もちろん。姫様は僕が初めて教えた、魔法使いの弟子だよ。新しく学んだ魔術も姫様に教えるよ」


 それでもまだ、少女は悲しくも不安だった。

 彼の他にも好きなものや大事なものはある。少しずつ、増えていった。

 後ろで見守ってくれている父、一緒に見送りに集まった姉や兄達、少女に仕えてくれる人達……美しく穏やかな日々。


「もっと素敵なものがたくさんある」


 どれも魔法使いが、コンラートが、少女に気づかせてくれたものだ。

 新しい世界に戸惑う少女の隣に寄り添い、手を引いて歩む歩幅を合わせながら、少女の世界を少しずつ少しずつ広げてくれたのはコンラートだ。


「でも……」

「なら、離れる時とまた会った時に、姫様の願い事を叶えるって約束する。これで心配ないよね。ゾフィー・シャルロッテ・フォン・グンダール=ルドルフシュタット王女殿下、そのための呪文をお伝えします」


 魔法使いは恭しく少女の、小さな耳元に口元を寄せた。

 皆、それを許した。

 少女にとって、魔法使いが特別であると知っていたから。

 魔法使いは少女だけに伝える――願い事を言う前に唱える言葉を。

 少女は魔法使いの言葉のあとを追い、小声で繰り返して言った。

 いま一番の願い事を。

 

「――ずっと一緒にいて、コンラート」


 魔法使いが大きく目を見開いて、驚く。

 それは……と、言いかけた言葉を彼は飲み込み、ぐっと唇を噛み締めるように一度黙って、それから少女の目をまっすぐに見つめて語りかけた。


「姫様の世界が、いまよりずっと広がって、いまよりもっとたくさんの好きなものや大切なものが出来ても、そう望むのであれば」


 そっと少女の手を取って、魔法使いはその手を額につけた。

 まるで口付けのかわりのように。

 

「もう行かないと、姫様」

「……コンラート……コンラァアトッッ……!」


 少女は気づいていた。

 魔法使いも、誰も、いつ帰ってくるとは言わないのだ。

 儀礼に適った礼をし、暇を告げる挨拶をして魔法使いはひらりと羽織った旅装の黒いマントを翻し、少女を振り返ることもなく応接間を出ていく。

 少女のために、国王が設定した非公式なお別れの場だった。


「コンラート……ッ」


 本当はもう、大きな国に睨まれた小さな国は孤立しつつあった。

 才能を惜しまれた彼は、万一の逃げ場所を作ることも兼ねて、国外へ出されたも同然で……それから四年後、少女も避難のために国を秘密裏に出ることになった。

 少女は思った。

 泣いて縋り付く自分をあやしながら、彼はどんな気持ちでいたのだろうと。


「コンラートーッ――!!」

 

 けれどその時の少女は、小さな体が引きちぎれそうなほど声を張り上げ、泣きながら魔法使いの名を呼ぶことしかできなかった。

 それはもう遠い別れの日、十歳のソフィアの記憶だ――。

 魔法使いと再び会うのに、そこから六年かかった。



  ◇◇◇◇◇



 十歳だった。

 コリガン講師の娘、『魔術書探究クラブ』で出会ったアシュリーと同じ歳。

 だからこんな夢を見たのだろうか?

 目が覚めてベッドの中でぼんやりと、ソフィアはそんなことを考える。

 髪の一筋を指に巻きつけ、その色をじっと見つめながら。

 夢の中の銀髪と違い、コンラートの変身薬で明るい栗色になった髪の色。

 祖国は滅び、家族は粛清され、ゾフィーという名の王女は平民ソフィアになって生き延び、コンラートと一緒にアルビオンの民として暮らしている。

 その現実の方が、夢の出来事のように思えることがある――。


「フィフィ? まだ寝ているのかい? 朝ごはんだよ」


 トントントンと、不意にソフィアの部屋のドアがノックされ、続いてコンラートのやや呆れ気味な声が聞こえてきた。

 応じないと、きっとドアを開けて入ってくる。

 まだベッドの中でぼんやりしているソフィアの姿を見たら、今度は支度を手伝おうとするだろう。行き届いた熟練の侍女のように、ソフィアの師匠は世話焼きだ。


「起きてるー」


 慌ててソフィアは声を上げる。

 声を出せば、まとわりついていた夢の気配が消えて、ここが現実だと思えた。

 ソフィアは大急ぎで顔を洗い、着替えて、髪を編み、階下の食堂へと降りた。


「おはよう、フィフィ。これはまた……いつにも増して尻尾みたいな髪だ。どこか調子でも悪い?」

「おはようございます。少し、夢見が悪かっただけです」

「寝ぼけて上手に編めなかった、かな?」


 否定も肯定もせず、ソフィアはテーブルの上の朝食を見た。

 こんがり焼けてバターをたっぷり塗った薄切りパンに、カリカリに焼いたベーコンとスクランブルエッグ。茹で豆の盛り合わせ、リンゴのパイ。

 大きめのポットに用意された、濃いお茶の香りもする。

 使用人はいないから、全部コンラートが作って用意したものだ。

 元貴族なはずの大魔導師は、何故だか生活能力がとても高い。


「どんな夢?」

「師匠が留学に出た時に、大泣きした夢です」

「ちょっと待って。その言い方、まるで僕が大泣きしたみたいだ」


 大泣きしたのはソフィアだが、いまになってコンラートにそれを言われるのは気恥ずかしい。言われる前に、彼女は席について食事前のお祈りに手を組んだ。

 そんなソフィアを見て、コンラートが苦笑しながら座り、パンにジャムをのせてくれる。口に入れたら、すもものジャムだった。焼いたパンとの相性は抜群である。 


「昨日、仲良くなったアシュリーが十歳で、王城の話もしたから思い出したのかも」

「フィフィの礼儀作法の練習は大変だった。癇癪起こして泣いて、僕が呼ばれて一緒に練習させられて。きっとどんな淑女より優雅に挨拶できるよ、僕は」

「……できそう」

「本気にしないでくれるかい。それにしても滅多にない年長者の振る舞いをして、気疲れしたのかもね」

「年長者の振る舞い?」

「学生達の相手をして、アシュリーが退屈そうなのに気がついて、古書の撮影作業の間はクラブハウスの庭に連れて行ってあげたりしていただろう?」

「魔術に興味なさそうだったから。わたしも、師匠みたいに魔術書に詳しいわけでもないし作業の邪魔になるかなって」


 名門私立だけあって建物だけでなく敷地も広い学校だ。

 校舎だけでなく、礼拝堂や教員寮、複数の学生寮のそれぞれに庭園があって美しく整えられ、運動場や乗馬のための場所もあるそうだ。

 写真機の操作は他のメンバーも出来るからと、案内についてくれたウィリアムが教えてくれた。


「いい判断だったよ。フィフィとアシュリーが抜けて、生徒達もいいところを見せようとしなくなったしね」

「師匠には?」

「魔術職志望ならともかく、僕にいいところ見せようはないよ。彼らにとってはコリガン講師の方が大事さ。学生クラブの活動も評価に影響するからね」


 少し意地の悪い表情を見せたコンラートに、見学の成果は十分あったようだとソフィアは、パンから豆や卵のお皿へと移る。


「戻って来た時、アシュリーとウィリアムは楽しそうだったね」

「銀杏の木が色づいてとっても綺麗でした。リスなんかもいて可愛らしかったし」

「子リスが、リスと遊んでいたの?」

「昨日は違いますっ!」

「僕が髪の毛を編み直してあげたからね。今日もかな」


 第三王子エドワードからの呼び名を使って、ソフィアを揶揄ったコンラートにむすっとして、卵をすくったスプーンを口に咥える。

 ふわふわのバター風味の卵が、くやしいけど美味しい。

 

「お茶飲む?」

「はい」

「今日のパイは上手く焼けてね。オーブンの魔力回路を改良した成果だ」


 この家には、コンラートが趣味で作る、便利な生活魔道具が色々と備え付けられている。使用人がいなくてもいいのは、それもある。

 おんぼろ屋敷だけれど設備はおそらく最先端だ。実用化してもよさそうな道具もいくつかあるけれど、趣味だけに採算度外視のものが多い。

 魔道具は設計が難しい。安全性や動作の安定性、量産を目指すなら費用面や作りやすさなど幾つものハードルがある。

 思いついたものを作るだけ作って、使いながら調整しているのだろう。

 とにかく四六時中魔術のことを考え、手を動かしているのが、ソフィアの知る魔導師コンラートだった。世間がイメージする万能な大魔導師や賢者とはちょっと違う。


「好きだよね、リンゴのパイ」

「……好きです、よ」

「よかった。ほら機嫌直して。美味しさが半減するよ」


 にっこりと、甘やかで優しい笑みを向けてくる。

 自分の容姿の良さも、その微笑みの効果も知っていて見せる、お姫様の望みをなんでも叶えてくれる魔法使いの顔だ。いつだって、ソフィアを気遣ってくれる。

 

「フィフィ」


 コンラートと一緒に過ごす日常が、朝ごはんがおいしいこと以上に、ソフィアはとてもうれしい。

 夢を引きずって沈んでいた気持ちも、だんだんと浮上してくる。

 お茶を飲めば、その温かさにほっとした。


「今日はレディントン教授のところに行くのですよね?」

「クラブ見学の翌日に来いと言われたからね」

「特に怪しいことはなかったと思います。普通の学究クラブでした」

「そんないいものだったかな? あれはもっと俗な集まりだよ」

「師匠、辛辣……」

 

 話している合間にも、もぐもぐと順調に朝食を食べ進めていたソフィアの皿の上を見て、コンラートは立ち上がるとりんごのパイを切り分けた。


「大きいのと、小さいのどちらがいい?」

「大きい方!」


 コンラートの焼くりんごのパイは絶品だ。

 渋みのある濃いお茶にたっぷりミルクを入れたものと合わせれば、至福である。


「弟子が食いしんぼうで作り甲斐があるよ」

 

 くすくすと笑って、コンラートが大きく切り分けたパイを皿にのせ、「はい、どうぞ」と差し出してくれる。すっかり甘やかされていた。

 ソフィアの魔法使いは、ソフィアがお姫様ではなくなっても変わらず優しい。

 けれど、十八歳になったソフィアはもうわかっている。

 コンラートにはコンラートの人生がある。

 ずっと一緒いることは出来ない。叶えさせる望みとして願ってはいけないことだ。沢山の好きなもの、大事なものが増えるのはソフィアだけじゃない。

 

「淑女に失礼ぃぃ」

「淑女はね、リスが木の実を詰めたみたいに頬を膨らませはしないよ」


 いつかは……早く、コンラートに庇護される弟子から独り立ちしないといけない。

 黄金色に焼き上がった、パイの表面を眺めながらソフィアは思う。

 大丈夫。

 大切にされた記憶は、事実は消えない。

 だから大丈夫。

 

「尻尾みたいなお下げも好きだけど、お出掛けだからね。後で編み直させて」


 自分はいつも黒衣に白ローブと変わり映えしないでいるのに、お出掛けとなればソフィアの支度に張り切るコンラートである。


「どうしていつも自分の支度以上に張り切るの?」

「弟子の一番の可愛さを見せつけたいからに決まってる」


 からかうのでもなく、甘やかに言うのでもなく、ごく真剣真面目な表情で断言してくるから、ソフィアは恥ずかしさよりもその並ならぬ執念に戸惑う。


「もちろんどんなフィフィも愛らしいよ。だけどね、その時々に合わせた弟子の姿は、師として試されるところだ」

「そう、なの……?」

「もちろん」


 師の品格に合わせろということなのだろうか。

 魔術関係者と会うからかもしれない。普段はそこまで熱は入らない。

 だとしたら年齢性別問わず人をときめかせるような、秀麗で艶めかしさもある師匠を持ったがゆえの苦労なのかもと、ソフィアは諦め半分な納得をした。

 こうして出かけたソフィア達を学園で出迎えたのは、彼女もお馴染みの紺地の制服をまとった、首都警察(ヤード)の警官達の姿であった。


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