第9話
窓を開けると、心地よい風が入ってくる。わたしは車椅子に座ったまま、その風を胸いっぱいに吸い込んだ。
最近、朝が少し楽しみになっている。足が思うように動かなくなってから、期待はしないと決めていた。希望を持てば、失ったときに苦しくなると知っているから。
それでも、今回はもしかしたら……。
「今朝はお加減が良さそうですね」
背後から柔らかな声が聞こえた。振り返ると、治療師であるソメリアさんが微笑んでいる。その姿は相変わらず落ち着いていて、彼女と話していると不思議と緊張が和らぐのだ。
「そんなに分かりやすかったですか?」
「ええ、そうですね。嬉しそうで、私も嬉しくなります」
ソメリアさんはくすりと笑い、わたしの背後に立つ。
「では、今日も頑張りましょう」
「はい」
リハビリは、温室で行われることが多い。暖かな光を浴びて、綺麗な花々を見ながら足を動かす練習をする。
初めはただ足に魔力を流してもらい、感覚を確認するだけだった。それが今では、膝を曲げる練習や足で体重を支える訓練まで進んでいる。
「そろそろ頃合いですね。本日は、立ってみましょうか」
彼女の言葉に、わたしの胸がどきりと鳴った。
ついに、この足で立つのだ。それだけで、心臓の鼓動が速くなる。少し怖いけれど、ここまでこれたのかと思うと嬉しい。
ソメリアさんが杖を渡してくれたので、それをしっかりと握りしめる。手のひらに汗が滲んで滑ってしまうかもしれないのが不安だ。
「無理はしないでください。少しでも危ないと思ったら、すぐに座ってください」
「……はい」
わたしは深く息を吸った。車椅子の肘掛けに手を置いて、力を込める。
身体を持ち上げ、足に重みがかかった瞬間、鈍い痛みが走った。
「っ……」
思わず息が漏れる。膝が震え、足が自分のものではないように頼りない。それでもなんとか、杖に体重を預けながら立ち上がる。ほとんどソメリアさんに支えられているかもしれないけれど……確かに自分の足で、立つことができた。
視点の高さが変わる。世界が少しだけ広く見える。
「すごいです、セレナ様。よく頑張りましたね」
ソメリアさんの優しい声に、涙が出そうになった。少し立てただけだけど、この少しがどれほど遠いものだったことか。二年間、届かないと思っていた場所だ。
「それでは、足を前に出してみましょうか」
わたしは頷いて、恐る恐る右足を動かそうとする。足が重くて思うように動かないけれど、ほんのわずかに前に滑らせることができた。
「……できた」
思わず声が漏れる。ソメリアさんを見ると、彼女は嬉しそうに頷いてくれた。
「はい! ではもう一歩、進んでみましょう」
今度は、左足を動かす。膝が震えて、身体がぐらついた。倒れそうになって、怖い。そう思った時、後ろから低い声が聞こえた。
「大丈夫ですよ」
レオンハルト様だ。集中していたからか、彼がいつ来ていたのか知らなかった。彼は少し離れた位置に立って、まっすぐとわたしを見ている。深緑の瞳が優しく細められていた。
「ゆっくりでいい」
その声を聞くと、不思議と心が落ち着いていく。わたしはもう一度、左足を前に出した。ぐらりと身体が傾くけれど、杖を握る手に力を込めると倒れることはない。
そして——前に進むことができた。自分の足で、二歩。たった二歩なのに、世界が変わった気がした。胸の奥から熱い者が込み上げてくる。
笑いたくて、泣きそうで、叫びだしたい。色んな感情が混ざり合って、言葉にできそうになかった。
「……レオン様」
思わず彼を見た。レオンハルト様は、微笑んでいた。とても優しい笑顔だ。その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ影がよぎったような気がしたけれど……わたしの気のせいだろう。
リハビリを終えた後、わたしは温室の椅子に座っていた。足はじんじんと熱を持っている。疲れているけれど、心は軽い。
「このまま、歩けるようになるでしょうか?」
零れた言葉に、ソメリアさんが頷いた。
「ええ。時間はかかるでしょうが、可能性は十分にあります」
支えるものがないと難しいかもしれないけれど、少しでも自分の意思で歩けるだけで嬉しい。
事故以来、未来のことを考えるのが怖かった。どうせこのまま、変わらないのだと思っていた。けれど今は、未来を想像してしまう。
自由に庭を歩くわたし。抱き上げてもらわなくても階段を上ることができるわたし。そして、レオンハルト様と並んで歩くわたし。
想像するだけで、胸が熱くなった。彼の隣に立ちたい。支えられるだけではなく、同じ位置で、同じ歩幅で歩きたい。そんな願いを抱いてしまう。
「セレナ」
レオンハルト様が近づいてくる。彼は膝を折って、わたしと視線を合わせた。
「今日はよく頑張りましたね」
「……ありがとうございます」
彼の声は誇らしげだった。まるで、自分のことのように喜んでくれている。その表情を見ていると、胸が温かくなった。やはりこの人は、とても優しい。
罪悪感だけで、こんな顔ができるだろうか。そんな考えが浮かんで、わたしは慌てて打ち消した。期待してはいけないこともあるのだから。
「次は、三歩を目指しましょう」
「ふふ。欲張りですね」
「あなたが歩けるようになるためなら、私はいくらでも欲張りになります」
レオンハルト様の言葉に、心臓が跳ねた。彼は何気なく言ったのだろうけれど、特別な言葉のように聞こえてしまう。
また勘違いしてしまうかもしれないけれど、今はこの温かさを拒むと言う考えはなかった。
レオンハルト様がそばにいて支えてくれていること。彼の存在が、わたしに勇気を与えてくれていることには間違いないのだから。




