第10話
椅子に座りながら、鏡の前のブラシを見つめていた。
いつもなら、レオンハルト様が髪を整えてくれる。最初は恥ずかしかったけれど、いつしかそれが当たり前になっていた。けれど最近、その当たり前が怖くなっているのだ。
わたしは、どれほど彼に頼っているのだろう。歩けないことと、何もできないことは違うと、そう思いたかった。
わたしは手を伸ばして、自分でブラシを取る。髪を梳かすも、自分でやってこなかったからか少し手間取ってしまった。後ろの方もうまく届かないけれど、時間をかけて結い上げていく。
完成した髪型は、かなり不格好だった。でも、嫌な気分ではない。
「……わたしにも、できるじゃない」
小さく呟いたちょうどその時、扉が叩かれた。
「セレナ、入っても?」
レオンハルト様の声だ。心臓がどくんと跳ねる。返事をすると、扉が開かれて彼が入ってきた。そして鏡の前に座るわたしを見るなり、動きを止めた。
「髪を……ご自分で、整えたのですか?」
「はい。一人でやってみたかったので」
彼は近づいて、わたしの後ろに立つ。鏡越しに目が合った。深緑の瞳が、ほんのわずかに曇っている。
「……無理をしなくても」
「無理はしていません。これくらい、わたし一人でできるようになりたいのです」
わたしは微笑もうとしたけれど、その笑みは少し硬かった。
レオンハルト様は何も言わず、ただ静かにブラシを取ろうと手を伸ばす。わたしは反射的にブラシを掴んで、彼に持たせないようにした。彼の手が宙で止まっている。
彼は驚いているようだが、わたしも驚いている。彼を拒むつもりはないけれど、自分でやりたかったのだ。
「……セレナ」
「今日は、わたしにやらせてください」
レオンハルト様はしばらくわたしを見つめていた。やがて、小さく頷く。
「分かりました」
その声は穏やかだけれど、どこか遠い。ひどいことをしてしまっただろうか。
午前中のリハビリは順調だった。ソメリアさんが「昨日よりも体重のかけ方が安定しています」と褒めてくれたから、嬉しかった。もっと頑張ろうと思えた。もっと、自分でできることを増やしたいと思った。
その気持ちは、どんどん強くなっていく。
部屋に戻ったあと、わたしは自分で紅茶を淹れようとした。ティーポットは少し重かったけれど、できないわけではない。慎重に支えながらカップに注ごうとしたその時。
「危ないですよ」
レオンハルト様の声が聞こえると同時に、後ろから手が伸びてきた。彼がポットを支え、わたしの手から重みが消える。
「大丈夫です」
「座ったまま淹れるのは危険です。火傷をしたらどうするのですか」
その口調は、いつもより少し強かった。胸がちくりと痛む。
「わたしにもできます」
「危なくなってからでは遅い」
彼はカップを寄せて、洗練された動作で紅茶を淹れ始める。まるで、彼がやることが当然だと言うかのように。
わたしは彼の動きを見上げるしかなかった。心の中には、もやもやとした感情が広がる。
もちろん、わたしに危険が及ばないように気を遣ってくれる彼には感謝している。でも……悔しい気持ちにもなってしまう。
「レオン様。わたし、自分でやってみたかったのです」
「分かっています」
「なら、どうして止めるのですか」
わたしを見下ろしたレオンハルト様は、一瞬言葉を失ったようだが、すぐに普段の彼に戻った。
「あなたが怪我をするのが嫌だからです」
その答えは、あまりにも真っ直ぐだった。彼が本気で心配してくれていることは分かる。分かるのに、胸の苛立ちが消えない。
「わたし、いつまでも何もできないままでいたくありません」
「あなたが何もできないなど……」
「でも、全部レオン様がやってしまうじゃないですか」
声が大きくなる。止めなくてはいけないと思ったけれど、感情は抑えきれなかった。
「いつも髪を整えてくださって、食事も与えてくださって、移動もしてくださって……。何もかもを、あなたが……!」
レオンハルト様の表情が硬くなる。心が痛むけれど、言葉が止まらない。
「それは、あなたを支えたいからです」
「支える?」
わたしは笑いそうになった。悲しいのか、悔しいのか、わたしにも分からない。
「それは、罪悪感からくるものですか?」
そう言ってしまった瞬間、空気が凍り付いた。レオンハルト様の瞳が見開かれている。
違う。こんなふうに言いたかったわけじゃない。けれど、一度零してしまった言葉はもう戻らない。
「セレナ」
いつもよりも遥かに覇気のない声。その声で、彼が傷ついたことが痛いほどに分かった。
それでも……胸の奥に溜まっていた不安と劣等感が、一気に溢れ出してしまう。
「だって、そうでしょう?」
わたしは机に手をつきながら、立ち上がろうと試みた。身体が不安定に揺れるけれど、わたしはなんとか地に足をつける。
「レオン様は、あの日から変わってしまいました。わたしを支えてくださるのも、世話をしてくださるのも、全部……」
涙が滲んでくる。彼の顔から血の気が引いていくのが分かったけれど、言葉は止まらない。
「責任を取っているだけなのではないのですか!」
言い終えた後、沈黙が落ちた。あまりにも重い沈黙。
レオンハルト様はしばらく動かなかった。怒鳴り返すことはなく、ただじっとわたしを見つめている。
その瞳に滲む色が変わってくのが分かった。傷ついた色、痛みを堪える色。わたしはそこでようやく、自分が何を言ってしまったのかを理解した。彼の心の傷を抉ってしまったのだ。
「……ごめんなさい」
謝ってももう遅い。レオンハルト様は目を伏せて視線を下げている。長い睫毛が影を落としていた。
「そう、見えていたのですね」
感情のこもっていない声。その静けさが、かえって胸を締め付ける。
わたしは何かを言おうとした。本当は、そんなことを言いたかったのではない。あなたの優しさが嬉しいからこそ苦しいのだと。期待してしまうのが怖いのだと。……でも、言葉にすることはできなかった。
レオンハルト様はわたしと距離を詰めた。距離は近くなったはずなのに、心の距離は遠くなっている。
彼はわたしの手からそっと杖を取り、慣れたように身体を支えた。
「疲れたでしょう。座りましょう」
その優しさが、苦しい。涙が止まらなくて、頬を伝っていく。彼は指先で涙をすくってくれたけれど、その顔は痛みで満ちていた。
「……私はもう、ここにいない方がいいでしょう。今日は帰りますね」
そう言って、彼は踵を返して扉へ向かった。その背中が、手を伸ばしても届かない距離にあって——。
「レオン様……!」
わたしは思わず呼び止めた。彼の足が止まるが、振り返ってはもらえない。
呼び止めたのに、わたしは何も言うことができなかった。彼は小さく息を吐くと、穏やかな声で言った。
「あなたが自分でできることを増やしたいと思うのなら、私は協力します。ですが、あなたが傷つくのは……本当に、嫌なのです」
彼は少しだけ振り返った。深緑の瞳に、痛みが滲んでいる。
「それだけは、信じてください」
扉が閉まり、静寂が落ちた。わたしはしばらく呆然として、その場から動くことができなかった。




