第11話
王立治癒院の応接室には薬草の香りが満ちている。レオンハルトは椅子に座り、黙って向かいの女性を見つめていた。
現在、セレナの足の治療を担当している、治療師ソメリア。彼女は診療記録を閉じると、考えるように視線を伏せた。
「率直に申し上げてもよろしいですか?」
「もちろんです」
レオンハルトが頷くと、ソメリアはまっすぐと彼を見た。
「レオンハルト様は、セレナ様に過保護すぎます」
その言葉は、予想していたよりもずっと真っ直ぐ胸に刺さった。彼は表情を変えないが、かなり危ういところまでいっている。
「彼女は少し目を離すと危険なことをしようとします。彼女が傷つくのを避けたいのです」
「それは理解しています。ですが何でも先回りをしてしまうと、セレナ様は『自分ではできない』と思い込んでしまいます。自立を妨げるような介助は、長期的には逆効果です」
ソメリアの声は柔らかく、責める口調ではない。だが、それらの言葉は刃のように彼の心を傷つけた。
彼は反射的に反論したくなったが、口を閉じる。彼女の言葉はすべて事実だ。
「昨日の件、聞きましたよ」
髪を自分で結い上げ、紅茶を淹れようとして、そして彼と言い争いになったこと。セレナが彼女に話したのだろうか。
「彼女は今、『自分でできるようになりたい』という大切な時期にいます」
レオンハルトは視線を落とした。昨日のセレナの顔が蘇る。苦しそうに涙を流しながら、彼と目を合わせようとしなかった。
『責任を取っているだけなのではないのですか!』
彼女の言葉が頭の中で反芻され、胸が鈍く痛む。
「……分かっています。分かっているつもりです」
彼が絞り出すように言うと、ソメリアは表情を和らげた。
「支えようとする思いは素晴らしいものです。セレナ様は、支えてくれる人がいることを理解しているからこそ、挑戦を続けることができています。これから大切にしてほしいことは、彼女が失敗する自由を奪わないことです」
その言葉に、レオンハルトは息を呑んだ。
セレナが転びそうになった時や危ないことをした時。自分はいつも、彼女が「失敗する前」に手を出していた。彼女を守っているつもりだったが、それは彼女から、自分でできたかもしれない可能性を奪っていたのかもしれない。
「……難しいですね」
気づけば、そんな本音が漏れていた。ソメリアは小さく笑う。
「レオンハルト様は、愛している人を相手にするとつい手が出てしまうのですね」
レオンハルトが勢いよく顔を上げたが、彼女はそれ以上何も言わなかった。
侯爵邸へ戻る場所の中、レオンハルトは窓の外を見ていた。
王都の街並みが流れていく。人々が歩き、笑い、当たり前のように自分の足で進んでいく。
……セレナも、あの中に戻りたいのだろうか。
戻れるのであれば、戻してやりたいという思いに嘘はない。それなのに、胸の中には消えることのない恐れがある。
彼女が以前のように歩けるようになり、自分の手を必要としなくなったら……その時、自分は何になるのだろう。
婚約者という立場は変わらないかもしれない。だがセレナは、自分を愛しているのだろうか。
事故の前、彼女は自分を兄のように見ていて、そこに恋愛感情は一つもなかった。事故の後に二人の距離は近づいたが、それは彼女を支える存在が必要だったからではないのか。
支えが必要でなくなった時、それでも彼女は自分を選んでくれるのだろうか。
レオンハルトはそっと目を閉じる。あまりにも酷い考えだと分かっているが、考えずにはいられない。
屋敷に戻り、廊下を歩いていると、いつの間にかセレナの部屋の前まで来ていた。無意識のうちに、彼女に引き寄せられてしまう。
部屋に入るか悩んでいると、中から何かが落ちる音と、小さな声が聞こえてきた。それを聞いた彼は、迷いを打ち払って扉を開ける。
目に入ったのは、床に散らばった紙と、それに向けて手を伸ばしたまま固まっているセレナだ。
「セレナ!」
反射的に駆け寄りそうになるが、ソメリアの言葉が頭をよぎり、足が止まった。
セレナは顔を上げて、驚いたように彼を見上げる。そして、すぐに目を逸らした。
「……大丈夫です」
強がりだとすぐに分かった。明らかに落ち込んでいる。机に置かれていた書類を取ろうとして、うまく掴めなかったのだろう。たったそれだけのことだが、彼女にとっては重い事実なのだろう。
レオンハルトの胸が締め付けられた。今すぐ拾って、「私がいますよ」と言って抱きしめたい。
彼女の心に寄り添いたいと思うのに……その落ち込んだ表情を見ると、嬉しいという感情が顔を出した。
何が嬉しいだ。彼女が落ち込んでいるのに、最低だ。
彼女が一人ではまだうまくできないと思い知らされていることに、安堵してしまった。自分がまだ必要なのだと、どこかで安心してしまった。
拳を強く握り締める。自己中心的な己に吐き気がした。
セレナは床に散った紙を見つめて、小さく笑う。その笑みは、とても弱々しい。
「昨日、あんなに偉そうなことを言ったのに。結局、こんなこともできないのですね」
違う。一度失敗したからといって、できないわけではない。そす言いたいのに、自分の中に生まれた醜い安堵を知ってしまった今、その言葉を口にする資格があるのか分からなかった。
しばらく沈黙が続く。やがてレオンハルトは、意識しながらゆっくりと息を吐いた。
「……拾うのを、手伝ってもいいですか」
いつもなら、何も言わずに拾っていただろう。セレナも驚いたように彼を見ている。可愛らしく目を丸くして、それから小さく頷いた。
「お願いします」
レオンハルトは床に膝をついて、書類を拾い始める。セレナも手を伸ばし、二人で拾った。その距離はどこか遠く、以前のような親密さはない。互いに少しずつ手探りをしているような状態。
レオンハルトが一枚の紙を差し出すと、彼女の指が触れる。セレナが「ありがとうございます」と呟くが、その声が妙に他人行儀に聞こえて胸が痛んだ。
書類を拾い終えると、セレナは視線を落としたまま言った。
「レオン様。昨日は、ごめんなさい。酷いことを言ってしまって……。わたし、レオン様を傷つけるつもりはないのです」
彼女の声は震えている。泣きそうな顔を見ていると、また思ってしまった。こんなふうに彼を求めて、苦しんでいる彼女が、愛おしいと。
「……私も、悪かった」
そう言うことで精いっぱいだった。
罪悪感や責任感だけでそばにいるわけではない。あなたを愛しているからそばにいたいのだ、と。
だがその言葉を口にした時、己の醜さまで知られてしまう気がしたから……何も言えなかった。




