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12/22

第12話


「仕事が長引きそうです。戻るのは夕方になると思われます」


 その朝、レオンハルト様はいつもよりも早く屋敷を出て行った。

 彼はいつものように優しく、わたしの髪を整えて優しく声をかけてくれた。だけど最近は、彼との間に見えない薄い膜が張ってしまったような気がする。わたしが彼に酷いことを言ってしまった日から、互いに気を遣うようになってしまった。


 レオンハルト様は、わたしの手助けをする前に確認するようになった。わたしも、以前よりも彼に頼ることを躊躇うようになってしまった。これは前進したのか、それとも距離ができてしまっただけなのか……。


「頑張らなくちゃ」


 リハビリを始めてから、わたしの中にはある変化が生まれていた。

 自分の足で歩きたい。自分でできることを増やしたい。そして、レオンハルト様に迷惑ばかりかける存在ではいたくない。その思いは、日々日々強くなっている。






 午前中のリハビリを終えたあと、わたしは庭に出たくなった。いつもならレオンハルト様が車椅子を押してくれるけれど、今日はお仕事のためいない。

 侍女を呼ぼうとしたけれど、ふと別の考えが浮かんだ。護衛騎士に、頼んでみようかな。

 レオンハルト様以外の男性に手伝いを頼むことは、事故以来ほとんどなかった。必要以上に避けていたのかもしれないけれど、いつまでもそうしてはいられない。


 わたしは扉を開けて廊下を覗き、近くにいた若い護衛騎士に声をかけた。


「ルーク」

「はい。何か御用ですか、セレナ様」


 明るい茶髪に青い瞳をした、快活そうな青年。レオンハルト様直属の騎士で、礼儀正しいがどこか親しみやすい雰囲気が漂っている。


「少し庭に行きたいのですが、車椅子をお願いできますか?」


 ルークは驚いたように目を見開いたが、すぐに爽やかな笑みを浮かべて頷いた。


「もちろんです。お任せください」


 その返事に、わたしは少しほっとした。






 ルークに車椅子を押してもらいながら庭を見る。最初は緊張していたけれど、彼の車椅子の操作はとても上手だった。揺れが少なくて、速度もちょうどいい。


「お上手ですね」


 思わず口にすると、ルークは照れたように笑った。


「妹が足を怪我したことがありまして。その時に車椅子の扱いを覚えたのです」

「そうだったのですね」

「はい。ですから、少しでもセレナ様のお手伝いができるのなら嬉しいです」


 その言葉に肩の力が抜けた。レオンハルト様以外の人に手助けを頼むことに、どこか抵抗感があった。けれど、ルークはわたしを特別扱いすることはなく、過度に同情することもない。自然に接してくれる。


「今日は風が気持ちいいですね」

「ええ、本当に」


 事故以来、わたしは社交的でなくなっていた。誰かと話すたび、自分が相手に気を遣わせる存在だと感じてしまうからだ。

 しかし、ルークとの会話は不思議と気楽だった。騎士団での訓練の話や、庭の花々の話、そして最近王都で流行っているというお菓子の話。他愛のない内容なのに、わたしは久しぶりに自然に笑うことができたと思う。


「セレナ様が笑ってくださると、俺まで嬉しくなります」

「ふふ。最近、前向きになれている気がするのです」

「リハビリの成果ですね」

「はい。進捗は、まだほんの少しですけれど」

「ほんの少しでも、前に進もうとするあなた様は素敵です。すごいです」


 ルークのまっすぐな言葉に、心がじんわりと温かくなる。レオンハルト様にも似たようなことを言われたことがあるけれど、別の人から言われるとまた違った重みがあった。

 しばらく庭を回っていると、尿意を感じた。何と言おうか考えていると、そわそわしているわたしに気づいたのか彼が声をかけてくれた。


「セレナ様。どうされましたか?」

「……少し、お手洗いに行きたくて」


 わたしがそう言うと、彼はすぐに庭から最も近いお手洗いに連れて行ってくれる。

 問題は、車椅子から立ち上がることだ。普段はレオンハルト様か侍女が支えてくれるけれど、ルークに頼むのは……流石に申し訳ない。

 そんなわたしの迷いに彼も気づいたのだろう。彼は片膝をついて、わたしと視線を合わせた。


「セレナ様がよろしければ、失礼がないように俺がお支えします」

「ありがとう。お願いします」

「ゆっくりで大丈夫ですよ」


 ルークはそっと腕を差し出してくれる。わたしは彼の腕に体重をかけながら、足に力を入れた。立ち上がれたけれど、ぐらりと身体が揺れる。すると、ルークが腰を支えてくれた。

 男性の腕の感触に、少し緊張してしまう。だけど、倒れるよりはいい。


「すみません」

「気にしないでください」


 ルークの手は力強く、安定感がある。わたしは彼に身体を寄せて、一歩前に進んだ。


 ——その時だった。


「セレナ?」


 今、聞こえるはずのない声が聞こえた。

 心臓の音が速くなるのを聞きながら、ゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、やはりレオンハルト様だった。外出用の服に身を包んだまま、感情の読めない表情で動きを止めている。

 新緑の瞳が、わたしとルークを見つめていた。最悪だ。よりにもよって、抱き合っていると見られてもおかしくないこの場面を見られるなんて。


「レ、レオン様。お早いお帰りで……」


 焦っていたせいで、余計なことを言ってしまった。ルークも彼の雰囲気の恐ろしさに気づいたのか、わたしから離れようとしたようだが、急に手を離してはわたしが倒れてしまうので離れられないようだ。

 レオンハルト様の表情は怒っているようには見えない。何も感情がないようにも見えるが……それが、恐ろしさを増している。


「お帰りなさいませ」


 わたしは必死に言葉を絞り出した。レオンハルト様の視線がわたしに向けられる。


「……ただいま。仕事が思ったよりも早く終わったので、あなたの顔を見に来ました」


 声は穏やかだけれど、冷たさも感じる。ルークはわたしの身体を支えたまま、慌てて頭を下げた。


「申し訳ありません、レオンハルト様。セレナ様がお手洗いへ向かわれるところで」

「説明は不要です」


 レオンハルト様がゆっくりと近づいてくる。彼の足音がやけに大きく聞こえた。

 彼はわたしの前で止まる。深緑の瞳がわたしを見下ろすけれど、その視線の意味が読めない。


「お手洗いに行きたいのですか?」

「……はい」

「そうですか」


 簡潔にそう言うと、彼はルークに視線を向けた。


「ご苦労だった」

「あ、ありがたいお言葉です」


 ルークは明らかに緊張している。その様子を見ていると、ますます居たたまれない気持ちになった。まるで、わたしが悪いことをしているようだ。

 悪いことはしていない。車椅子の操作を頼んだだけだ。それなのに、どうしてこんなに後ろめたいのだろう。婚約者がいるのに、男性に介助を頼んだことはやはり間違いだったのだろうか。


 俯くわたしの前に、レオンハルト様の手がそっと差し出される。


「続きは、私が」


 わたしは、彼の手を取るしかなかった。

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