第13話
お手洗いを済ませたあと、わたしは鏡の前で小さく息を吐いた。
レオンハルト様の表情はいつも読めないことが多いけれど、今はいつにも増してそうだ。
車椅子に戻ると、レオンハルト様が当然のようにハンドルに手をかける。その動作はいつも通り、丁寧で優しい。
「レオン様、お仕事は?」
「予定よりも早く終わりました」
会話が続かない。わたしは何度か振り返ろうとしたけれど、彼の顔を見るのが怖くてできなかった。
元の場所に戻ると、壁際で待機していたルークに彼が声をかける。
「ルーク」
「はっ」
ルークがすぐに姿勢を正す。レオンハルト様の声がいつもよりも冷たくて、何となく嫌な予感がした。
「今後、セレナを介助する際は、必ず侍女を同席させてください。婚約者でもない男が、馴れ馴れしく令嬢に触れてはいけません」
「ですが、今回は……」
「彼女に何かあったらどうする」
その声は鋭かった。あまり聞いたことのない声に、わたしはびくりと震えてしまう。レオンハルト様はそんなわたしが目に入っていないのか、そのまま続けた。
「立位の補助は、まだ彼女の転倒の危険が高い。あなたが悪いと言っているのではない。だが、常に万が一の事態を考えなければならない」
「申し訳ありません」
ルークは落ち込んだように視線を落とした。それを見ていると、胸にもやもやとした感情が生まれる。
違う。ルークは悪くない。頼んだのはわたしで、しかも彼はとても丁寧に対応してくれた。
「待ってください」
聞いていられなくて思わず声を出すと、二人がわたしを見た。
「ルークは何も悪くありません。彼を責めないでください」
「責めているわけではありません」
「ですが、今のレオン様の言い方ではそう聞こえます」
レオンハルト様の眉がわずかに寄る。
「セレナ」
「わたしがルークに頼んだのです。……レオン様は、わたしが誰かに支えられることが嫌なのですか?」
ルークが息を呑み、レオンハルト様の瞳が見開かれたのが分かった。
「そういう話ではありません」
「では、どういう話ですか? わたしはもう、子どもではありません。自分で選ばせてください」
一度後悔したはずなのに、また言葉が強くなってしまう。レオンハルト様は黙っていたけれど、やがて低い声で言った。
「あなたが傷つくのが怖いだけです」
「……それは、わたしを信用していないのと同じです」
まただ。またわたしは、一方的に彼に酷いことを言おうとしている。
レオンハルト様から目を逸らすと、居心地悪そうに立っているルークが見えた。わたしたちの問題に、彼を巻き込むのは流石によくないだろう。
「支えてくれてありがとうございました、ルーク。先に戻ってください」
ルークは気まずそうに頭を下げる。
「失礼します」
彼が離れると、当然その場にはわたしとレオンハルト様だけが残された。
わたしは、彼を困らせたいわけではない。傷つけたいわけでもない。それなのに、話せば話すほど互いを傷つけてしまうような気がするのだ。
「……わたしも、部屋に戻ります」
車椅子の魔法陣に手を触れて、魔力を込める。すると、レオンハルト様がわずかに手を動かした。
「セレナ、待って」
「待ちません。一人で戻ります」
「今は感情的になっています。そのままでは危ない」
「レオン様こそ!」
わたしは魔力を流し込んだけれど、勢いが強すぎたようだ。車椅子が動き出して、廊下の曲がり角に向かって加速する。しまった、と気づいた時には遅かった。なんとか動かそうとすると、車輪が段差に引っかかった。
「っ!」
ぐらりと視界が傾いて、身体が前に投げ出される。落ちると思った瞬間、強い腕がわたしの背中を抱き留めた。
「セレナ!」
レオンハルト様が飛び込むようにわたしを支え、倒れかけた車椅子を片手で押さえ込んでくれたのだ。深緑の瞳が、がすぐ近くにあった。
「大丈夫ですか。怪我はありませんか」
彼の声は震えていた。声だけでなくて、腕も震えている。彼はわたしを抱きしめるように支えていて、その力はかなり強かった。
「……迷惑をかけて、ごめんなさい」
レオンハルト様は何も答えない。ただ、わたしを抱きしめる腕に力が入る。彼はそのままゆっくりと身体を起こし、わたしを車椅子に戻そうとして——止まった。彼は迷うように目を閉じると、わたしを横抱きにした。
「えっ」
驚きで声が漏れる。彼は何も言わず、侍従を呼んで車椅子を預け、わたしを抱えたまま歩き出した。
「レオン様。わたし、こんな……」
「危ないですよ。暴れないでください」
有無を言わせない響きだ。わたしは反論しようとして、言葉を失う。
彼の胸に顔を寄せていると、彼の鼓動が速いことに気が付いたからだ。激しく脈打っている。彼は……それほど、わたしが転びそうになったことが怖かったのだろうか。
わたしはそっと彼を見上げる。表情が硬く、唇がきつく結ばれている。彼はきっと、怒っているのではない。ただ本当に、わたしが傷つくのを厭っているだけなのだろう。
「……レオン様。怖いのですか?」
小さな声で尋ねると、彼の腕がわずかに動いた。彼は前を向いたまま答える。
「はい。あなたが車椅子から落ちそうになった時、心臓が止まるかと思いました」
彼の声が、いつもよりも弱々しい。彼の弱いところを見た気がして、どうしてか心臓が高鳴った。触れあっているから、わたしの鼓動も彼に伝わってしまうかもしれない。
レオンハルト様の腕の中は温かい。その温かさに包まれていると、安心する。
そっと彼の胸に頭を寄せると、彼はびくりと身体を震わせた。彼の動揺が伝わってくるようで、ちょっと面白くなって、小さく笑みをこぼしてしまった。




