第14話
深夜になっても、レオンハルトは眠ることができなかった。机の上には未整理の書類が積まれているが、文字は一つも頭に入ってこない。彼の頭の中にあるのは、セレナに関することだけである。
彼女を抱き上げた時の感覚が、今も腕の中に残っているような気がする。その温もりを追うように、彼はそっと目を閉じた。
「……セレナ」
誰もいない部屋で、彼女の名を呟く。
彼女が車椅子から落ちそうになった時、恐怖で心臓が凍り付くかと思った。彼女を失ってしまうかもしれないと思った。これは紛れもない本心だが、直後に別の感情が胸を満たしてしまったのだ。
彼女が傷つかなかったという安堵と、彼女を抱き上げることができたことへの喜び。
過去に彼女を救いきれなかった後悔と、救えたという錯覚の境界が曖昧になるたびに、自分が壊れていくのを感じていた。
あの忌まわしい日のことを、彼は一日たりとも忘れたことがない。
血の気を失ったセレナの顔。自分の腕の中で、彼女の体温が冷たくなっていく恐怖。
あの日に、彼の心は壊れてしまった。彼女を守れなかった。自分の魔法で傷つけた。その罪は、死ぬまで消えることはないと思っている。どんな代償を払っても、彼女を再び歩かせたい。その願いに、嘘はない。
……本当に?
己の声が頭の中に響き、彼は額を強く抑えた。その問いを、彼は何度も避けてきた。
彼女の傷を治したいけれど、治ってほしくない。その矛盾した願いが、胸の奥に確かに存在している。それを認めるたびに、彼は自分が人間としてどこか壊れているのだと理解するしかなかった。
事故があった最初の数週間は地獄のようだった。セレナは高熱を繰り返し、夜中に痛みで泣いていた。レオンハルトはほとんど眠らず、彼女の傍にいた。水を飲ませて、痛み止めを飲ませて、汗を拭いて、冷えた足を温めた。彼女が眠るまで手を握り続けた。
彼女が苦しんでいる時間は、彼にとっても苦しくてたまらなかった。だが同時に、彼は知ってしまったのだ。セレナが、自分を必要としている感覚を。
「れおん、さま」
熱に浮かされ、力のない声で呼ばれるたび、心が震えた。自分がいなければ、この子は困る。彼女は自分だけを頼っている。その事実が、甘くてたまらなかった。
そして彼は、その甘さを手放すことができなかった。彼女が自分の所為で苦しんでいるのに。歩けなくなって絶望しているのに。その姿を見て、「必要とされている」という背徳感を抱いてしまった自分を、彼は心の底から嫌悪した。
だが、嫌悪しても消えることはない。むしろ、時間が経つほどにその思いは根を張っていった。
レオンハルトは立ち上がって、部屋を出る。そしてほとんど無意識のうちに、セレナの寝室を訪れていた。
セレナは心地よさそうに眠っている。銀色の髪が枕に広がり、穏やかな寝息を立てている。
彼は足音を忍ばせて近づいた。寝台の傍に膝をつく。長い睫毛に白い頬、色づいた唇。こんなにも愛らしく、愛おしい。目を離してしまうと、壊れてしまうのではないかと心配になるほどに儚い。
そっと彼女の手に触れる。温かくて、胸が満たされる。そして同時に、黒い感情が顔を出した。
このまま、閉じ込めてしまいたい。誰にも触れられないように、誰にも笑いかけられないように、彼だけの世界に置いてしまえたら……。
彼女が護衛騎士ルークに支えられていた姿を思い出すと、胸の奥で何かが弾けそうになる。怒りだけではない。もっと醜い感情。
嫉妬だ。彼女が自分以外に身を預けていることへの、耐え難い嫉妬。
これは純粋な愛ではないと分かっている。独占欲と、執着だ。彼女を自分だけのものにしたいという欲望。この想いの止め方が分からない。
『失敗する自由を奪わないこと』
ソメリアの言葉が蘇る。彼女の言葉は正しい。セレナは前に進もうとしている。自分でできることを増やしたいと思っている。その姿が眩しくて、誇らしい。
それなのに……怖い。彼女が歩けるようになり、自分の手を借りずとも生活できるようになったら。その時、彼女は自分を必要とするのだろうか。
彼はずっと片想いだった。残酷なことに、彼女が歩けなくなったことで、彼女は自分の腕の中に収まった。そしてもっと恐ろしいことに、医師から「完全な回復は難しい」と告げられた時、彼は絶望すると同時に、安堵してしまった。
彼女は自分から離れていかないと、そう思ってしまった自分を、彼は一生許さないだろう。
セレナが寝返りを打ち、彼は反射的に身を乗り出した。彼女の額にかかった髪を払う。
「あなたを支えたいんだ」
彼女と共に並んで歩きたい。共に笑って、庭を歩きたい。昔のように、一緒に馬で遠乗りをしたい。だが——。
「……そのままでいてほしいな」
彼女が自由になる未来を恐れている。彼女にとって自分が不要になり、愛されないまま取り残される未来を。
レオンハルトは唇を噛んだ。彼女を傷つけたのは自分だ。こんな感情を抱く資格すらない。償うべき立場なのに、彼は彼女を手放せない。
愛しているから。愛しすぎてしまったから。
彼はそっと身を屈め、セレナの額に触れるだけの口づけを落とした。眠っている彼女は気づかない。
気づかなくていい。こんな感情を知られてはいけない。彼女には、もっと健全な愛を受ける権利がある。彼のような、壊れた愛ではなく。
彼はゆっくりと顔を離した。セレナは変わらず穏やかに眠っている。その姿を見つめながら、彼は己に問うた。
もし彼女が自分を必要としなくなっても、その時、自分は笑って送り出せるだろうか。
答えはとっくに出ていた。
——できるはずがない。
そうなった時にはきっと、彼女を閉じ込めてしまうのだろう。




