第15話
レオンハルト様が屋敷を数日空けると聞いた時、わたしは「そうですか」としか答えることができなかった。王城から急な収集がかかったらしい。北方の魔獣討伐に関する会議で、数日戻れない可能性があるという。
出発前、彼はいつも以上に細かく使用人たちに指示を出していた。薬の時間やリハビリの予定、夜に足が痛んだ際の対処法、緊急時の連絡方法など。まるで、長い旅に出るような念入りさだ。
「そこまでしなくても大丈夫ですよ」
思わず声をかけると、彼は困ったように笑った。
「大丈夫だと思うためにしているのです」
彼の返事に、何も言うことができなかった。
最後に彼は、いつものようにわたしの髪を整え、額に触れようとして——止めた。彼は躊躇うように瞳を揺らし、手を引く。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃいませ」
わたしは、彼の背中が見えなくなるまでじっと座っていた。寂しい、とは思わないようにしている。
たった数日だ。それくらい、彼がいなくても過ごせる。むしろ、過ごせなくてはならないのだ。彼に頼りすぎてはいけないのだから。
最初の一日は、案外平気だった。朝は自分で髪を結って、侍女に少し手直しをしてもらう。
リハビリも予定通り行われた。ソメリアさんは「順調ですよ」と言って微笑んでくれるから、わたしも前向きな気持ちを保てる。
食事も問題なく摂れる。車椅子の操作も、以前より安定しているような気がする。
「ほら、ちゃんとできる」
窓辺で紅茶を飲みながら、わたしは小さく呟いた。レオンハルト様がいなくても、自分は生活できると、証明できるような気がした。
二日目。少しだけ、不便さを感じ始める。
本棚の高い場所にある本が取れない。侍女を呼べば済む話だ。でも、そのためだけに人を呼ぶことには遠慮が生まれてしまう。レオンハルト様は……わたしが何も言わなくても、わたしが何をしたいのかをすぐに察してくれるから。
昼過ぎ、廊下で車椅子を動かしていると、車輪が絨毯の端に引っかかって思うように進めなくなった。一人で移動しているから、自分で角度を調整して何度もやり直す必要がある。できないわけではないけれど、時間がかかってしまうせいで、疲れてしまった。
夕方になる頃には肩が重くて、指先がじんと痺れていた。
「大丈夫」
そう自分に言い聞かせる。これくらい、普通のことだ。慣れないといけないことなのだから。
三日目。足の調子が悪かった。朝から鈍い痛みが居座っている。天気が崩れる前触れかもしれない。
ソメリアさんは今日は王立治癒院へ戻っていて、屋敷にはいない。薬を飲んで、足を温めて、休んだら落ち着くだろうと思っていた。
でも夜になるにつれて、痛みが強くなった。じわじわと、神経が焼けるような痛みが広がる。時々訪れる発作だ。
痛みを堪えるために寝台の上で身を丸める。
「っ……」
息を吐くたびに冷や汗が滲んで、痛みが波のように押し寄せる。侍女が慌てて湯たんぽを持ってきてくれるが、これでは足りない。
レオンハルト様なら、もっと的確に温めてくれる。魔力を流し込む場所も、力加減も、全部わかっている。
……わたしは、何を考えているのだろう。まるで彼がいないと、わたしが駄目になってしまうみたいじゃない。
でも実際、痛みが強い夜は、いつも彼が楽にしてくれた。温かい手で足を包み込んで、心地よい魔力を流してくれる。
「大丈夫ですよ」
と優しい声で囁かれると、不思議と痛みが和らいだ。しかし今は、その声がない。世界から音が消えたように、静寂で満ちている。
わたしは枕に顔を埋めた。痛い。苦しい。心細い。
認めたくなかったけれど……認めるしかない。レオンハルト様がいないだけで、こんなにも不安になってしまう。
夜半過ぎに、ようやく痛みが落ち着いた。じんじんと残っていて完全には消えていないけれど、涙が出るほどではない。
わたしはぼんやりと天井を見上げた。眠れない。こういう夜は、いつも彼がやって来て、温めた布と薬湯を持って、そっと傍に座ってくれる。
それが当たり前だと思っていた。いや、当たり前にしてしまっていた。
自分の足に触れて見ると、わたしの手は冷たかった。彼の手は、いつも温かいのに。
……寂しい。レオンハルト様に会えなくて、寂しい。彼の声が聞きたい。彼にそばにいてほしい。
彼はずっと支えてくれていた。わたしは自分でできるようになりたいと言っているけれど、これは支えてくれる人がいるからこそ言えることなのだ。
このことを理解してしまうと、わたしが彼にどれほど依存しているのかを認めることになってしまうかもしれない。でもわたしは、既に理解してしまっているのだろう。
翌朝。鏡の中のわたしはひどい顔をしていた。目の下に暗い影ができている。ミーアが心配そうに眉を寄せてわたしの顔を覗き込んだ。
「昨夜はお辛かったですね」
「眠れなかったのは少しだけよ」
意味もなく強がったけれど、声に力がなかったからバレバレだろう。
朝食もあまり喉を通らなかった。リハビリの途中では足に力が入らなくなって、ソメリアさんに休むように言われてしまった。
「無理をすると逆効果ですよ。今日はお休みにしましょう」
わたしは頷きながら、心の中で別のことを考えていた。レオンハルト様なら、困った顔で「頑張りすぎです」と言うだろうか。呆れたように言いながらも、結局最後まで付き添ってくれるのだ。決して、わたしを途中で見捨てることはない。
そんな想像をして、わたしは思わず笑ってしまった。自分の中に、彼が染み込みすぎている。
わたしは、彼に任せっきりになるのではなく、自分でできることは自分でやりたいと思っている。けれど、その自立したいという願いと、彼にそばにいてほしいという願いは、必ずしも矛盾しないのかもしれない。
けれど、その答えを口にするには、まだ少し勇気が足りなかった。




