第8話
レオンハルトは、セレナのその笑顔を二年ぶりに見た気がした。
彼女がほんのりと頬を緩めている。大きく笑っているわけではない。声を上げているわけでもない。それでも、その表情には期待が滲み出ていた。そして、その期待を与えているのは、自分ではない。
「では、まずは足先の感覚を確認しましょう」
柔らかな声が部屋に響いている。新しく招いた治癒師——ソメリア。二十代後半ほどの若い女性だが、王立治癒院の中でも神経系と魔力回路の治療を専門とする稀少な治療師である。レオンハルトが半年前から接触を続け、ようやく侯爵邸に招くことができた人物だ。
「痛みがあれば、すぐにおっしゃってくださいね」
「はい」
セレナの返事は、最近では珍しいほど素直だ。
レオンハルトは少し離れた場所から、彼女らのやり取りを見守っていた。ソメリアがセレナの足に触れている。魔力の流れを探っているのだろう。時折、セレナの肩が強張っている。
痛くないだろうか。無理をしていないだろうか。そう思っては彼女の傍に寄りたい衝動に襲われる自分に、苦い笑みが浮かぶ。かなり過保護だと分かっているが、これは反射のようなものだ。
「……ここは、どうですか?」
ソメリアが足先に触れながら尋ねる。セレナは目を閉じて、集中しているようだ。長い沈黙の後、彼女の睫毛が震える。
「少しだけですが……分かります」
レオンハルトの心臓が強く打った。彼女は「少しだけ」と言っただけだが、胸の奥に熱が広がる。ソメリアも驚いたように目を見開き、すぐに微笑んだ。
「良い兆候です。完全に断絶しているわけではありませんね」
セレナの顔がぱっと明るくなる。その笑顔が眩しい。
事故以来、彼女はできないことに慣れ過ぎてしまっていた。期待することを恐れ、希望を持つことを避けていた。そんな彼女が今、未来を見て笑っている。そのことに、レオンハルトは安堵した。
診察が終わった後、ソメリアが治療計画を説明した。
「すぐに歩けるようになるわけではありません。ですが、魔力回路の反応が残っていますので、改善の可能性はあります。痛みがないようでしたら、長期的にリハビリを続けていきましょう」
無責任な希望を与えない。そこがソメリアの信頼できるところでもある。セレナは真剣な表情で聞いていた。そんな彼女の横顔を見ていると、彼の心には奇妙な感情が生まれる。
嬉しい。彼女が歩ける可能性があるのなら、どんな代償でも払う。それが彼の願いであるはずなのに……。
「レオン様」
不意に、セレナが振り返った。その瞳が、まっすぐ彼を見ている。
「わたし、頑張ってみたいです」
その言葉に、胸が締め付けられた。彼女は前を向こうとしているのだ。レオンハルトは、できるだけ優しく見えるように微笑んだ。
「ええ。私も全力で支えます」
穏やかな声を保ちながら、その裏では別の感情が蠢いている。
——もし、彼女が本当に歩けるようになったら。
セレナが自分の足で立つ。誰の手も借りずに、昔のように自分の意思で歩く。事故の後、その光景を何度も夢見てきた。
それなのに今、その想像をすることが辛い。今の彼女は、彼の手助けがなければ思うように行動することはできない。彼がいないと不安そうに彼の姿を探している彼女が、愛おしくてたまらない。このまま、ずっと彼の手を必要としてくれたらいいのに。
……自分は、何を考えている。彼女を傷つけた己を恨み、彼女の回復を願ってきたのは自分だろう。
毎日のように治療法を探し、研究資料を集め、王立治癒院に頭を下げ続けたのは誰だ。
レオンハルトは視線を下げた。彼女の笑顔が見たい。彼女にもう一度歩いてほしい。それなのに、歩けるようになった彼女が、自分から離れてしまうのではないかと恐れている。そんな感情を抱く資格が、自分にあるのだろうか。
「レオンハルト様?」
ソメリアの声で我に返る。
「失礼。考え事をしていました」
彼はすぐに表情を整えた。この醜い感情を、誰にも悟られてはいけない。特に、セレナには。
その日の午後、ソメリアに指導されながら、セレナは軽いリハビリを行った。
「もう一度、試してもいいですか?」
「もちろんです」
彼女は何度でも挑戦する。失敗しても、諦めようとしない。その姿を見ていると、レオンハルトの胸は温かくなると同時に、彼女が遠くなっていくような感覚もあった。
彼女の世界に、新しい光が差し込んでいる。そこに自分は必要だろうか。
……彼女のことを考えているふりをして自分のことばかりを考えてしまう己を、心の底から嫌悪する。
「今日はここまでにしましょう」
ソメリアが言うと、セレナは少し息を弾ませながら満足そうに頷いた。頬がほんのりと愛らしく赤くなっている。
本当に、久しぶりだ。彼女がこのように生き生きとしているのを見るのは。事故以来、セレナはいつもどこか遠慮していた。「迷惑をかけたくない」
「わたしは大丈夫」と、そんな言葉を繰り返していた。
「次は、いつ行いますか?」
しかし今の彼女は、声に期待を滲ませている。
レオンハルトはそっと目を閉じた。この笑顔のためなら、何だってする。それなのに、腹の底の黒い感情が消えてくれない。
夕方。ソメリアを見送った後、セレナは疲れて眠ってしまった。寝台で寝息を立てている彼女の傍らに立ち、しばらく彼女を見つめる。
柔らかな銀色の髪が散らばり、穏やかな寝顔をしている。眠っている時の彼女は、普段よりも幼く見えた。
彼はそっと毛布を整える。指先が頬に触れそうになって、ぎりぎりで止めた。
触れたい。抱きしめたい。彼女が歩けるようになるようにと願いたい。そして同時に、「歩けるようになっても、私を見捨てないでほしい」と願ってしまう。
あまりにも身勝手だ。彼女の足を奪った張本人である彼が近くにいることは、彼女にとって良いこととは限らないだろう。
レオンハルトは小さく笑った。己を嘲る、彼女の前では見せない笑み。
「……本当に、最低だな」
彼は踵を返し、窓辺へ向かった。青空を見ていると、あの日の空を思い出す。彼が彼女の未来を壊した日のことを、思い出す。
その償いのために生きているつもりだった。だが、今ではもう償いだけで生きていけるとは思えない。
セレナを愛しているから、彼女を手放したくない。……彼女を支えるのは、自分だけであってほしい。




