第7話
王妃主催の小規模な夜会に参加することになった。わたしは足が不自由で、欠席しても許される立場であるけれど、レオンハルト様が「無理のない範囲で顔を出しませんか」と言ったから断れなかった。折角の彼からの申し出を断りたくなかったのかもしれない。
わたしは淡い緑のドレスを纏い、車椅子に座っていた。裾には銀糸の刺繍が施され、髪には小さな真珠が散らされている。レオンハルト様が選んだ装いだ。
「よくお似合いです」
ドレスを着たわたしを見て、彼はそう言って嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見た時、胸がぽかぽかと温かくなった。
でも、今ここにいることは苦しい。大広間の中央では、貴族たちが楽しげに談笑している。女性たちはドレスの裾を翻しながら軽やかに歩き、男性たちはその手を取って踊りへ誘う。
わたしはその光景をじっと眺めていた。前までは、わたしもあの中にいた。踊ることは得意じゃなかったけれど、レオンハルト様に手を取られ何度か踊ったことはある。あの時の緊張と嬉しさを、今でも覚えている。
わたしはもう、あの時のように踊ることはできないのだ。その事実を、こういう場所に来るたびに思い知らされる。
「飲み物を取ってきますね」
レオンハルト様が耳元で言った。わたしは彼を見て、頷く。
「ありがとうございます」
彼が離れていく。長身で市政の良い彼の姿は人混みの中でもよく目立つ。背筋の伸びた立ち姿に、洗練された所作。誰もが自然と視線を向けるような容姿。
わたしはその背中を見送りながら、胸の奥に小さな痛みを感じた。あの人は、本当に眩しい。
何をしようかと辺りを見回していると、ふと、令嬢たちの話し声が聞こえた。
「セレナ様もお可哀想に」
「ええ。でも、レオンハルト様は本当に立派ですわ。普通なら婚約を解消しても、誰も責めませんもの。それなのに、ずっと支えていらっしゃるなんて」
「誠実なお方ですわね。公爵家の嫡男でしょう? 将来はいくらでも良縁があったはずなのに」
「それを捨ててまで……。頭が上がりませんわ。セレナ様は幸せ者ですね」
彼女らの言葉が鋭く胸に刺さる。幸せ者だという響きが空虚に聞こえた。
涙が滲みそうになり、必死に瞬きをして堪える。彼女たちは悪意を持って言っているわけではない。ただ、レオンハルト様を称賛しているのだろう。それは社交界の総意なのかもしれない。そして、わたしもずっと、心のどこかでそう思っていた。
あの事故がなければ、彼はもっと自由に未来を選べたはずだ。もっと相応しい人を愛せたはずだ。……わたしは、その未来を奪ってしまった。
このままここにいたら表情を保てなくなりそうだったので、車椅子を動かして大広間の端っこに移動する。窓際は静かだった。夜の庭が見えて、心が落ち着く。
「セレナ?」
後ろから声が聞こえた。レオンハルト様だ。手に二つのグラスを持っている。
彼はわたしの顔を見て、わずかに眉を寄せた。
「気分が悪いのですか?」
「いいえ、大丈夫です」
「顔色が悪いですよ」
わたしの返事に彼は納得していない顔をして、わたしの頬に手を伸ばす。わたしが少し身を引くと、レオンハルト様の手が止まって新緑の瞳が揺れた。
「……何か、嫌なことがありましたか」
わたしは彼の顔を見ないように目を伏せた。
「皆様が、レオン様を立派だとおっしゃっていました」と言いかけて、止める。これを口にすると、察しのいいレオンハルト様には、わたしがどれほど傷ついているかを知られてしまう。恩義で愛されているのが悲しいと、知られてしまう。……そんなことを言えるはずがない。
「何でもありません」
結局、首を振ることしかできなかった。レオンハルト様はしばらくじっとわたしを見つめている。その視線には、心配と、わずかな苛立ちが混じっているように見えた。だけど彼は何も言わず、グラスを差し出してくれる。
「温かいものを持ってきました」
「ありがとうございます」
指先が触れる。その温もりに、また胸が痛んだ。
◇ ◇ ◇
飲み物を取って彼女の元に戻る最中、レオンハルトの耳には、数人の貴族の話し声が聞こえていた。
「ヴァルツ公爵家の御嫡男は見事ですな」
「ああ。あれほど責任感の強い若者は珍しい。しかし……足の不自由な令嬢を妻に迎えることは、普通は家のためにも避けるものだがな」
「社交にも支障が出ますし、後継の問題もありますからねぇ。それでも寄り添い続けるとは、よほどの情があるのか、それとも義理からか」
彼の表情は変わらないが、胸の奥では何かが激しく軋んでいる。
まるで、自分の愛が「義務」に変えられているような気分になる。まるで、セレナへの想いが「償い」に矮小化されているような気分になる。
彼はゆっくりと振り返った。貴族達は善意の顔で笑っている。悪意などないのだろう。だからこそ、余計に腹が立つ。
もし義務だけなら、どれほど楽だっただろう。もし責任感だけなら、こんなにも苦しまなくて済んだのかもしれない。
彼は二年前から、毎日自分を責め続けている。彼女の心からの笑みを奪ってしまった自分を恨み続けている。
——彼はずっと前から、セレナのことを愛していた。事故が起こる前、彼女が馬に乗って笑いながら駆けていた頃から。
その事実は誰も知らない。誰にも知られないようにしてきた。そして今、彼女まで彼が責任感からそばにいるのだと思っているのではないかという恐怖が芽生え始めている。
レオンハルトはグラスを強く握り締めた。水面がわずかに揺れる。
違う、と心の中で呟く。自分の感情は、そんなに綺麗なものではない。もっとずっと醜くて、重くて、手放すことのできないものだ。
セレナを失うことが怖い。彼女が再び歩けるようになることを願いながら、同時に自分を必要としなくなる未来を恐れている。
そんな感情を抱く自分を、彼は誰よりも嫌悪していた。
それでも……それでも、彼女を愛している。
レオンハルトは深く息を吐き、表情を整えた。そして、窓際に移動しているセレナの元へ歩いていく。彼女は窓の外を見ながらぼんやりとしていた。事故が起きてから、彼女がよく見せるようになった表情だ。
小さく見えるその背中を見つめながら、彼は静かに思う。どうすれば、この想いを伝えられるのだろう。責任でも義務でもない。ただあなたを愛しているのだ、と。
だが、彼女の足を奪ってしまった自分が彼女を愛する資格などないだろう。




