第6話
次の日には、雨は上がっていた。昨日までの暗い空とは反対に、眩しいばかりの青空が広がっている。わたしは椅子に座って、その景色をぼんやりと眺めていた。
昨夜のこと、まだ現実感がない。でもレオンハルト様は、今朝もいつも通りだった。穏やかに挨拶をして、紅茶を淹れて、髪を整えて、何事もなかったかのように微笑んだ。昨夜、わたしに口づけたとは思えないほどにいつも通りの彼である。わたしだけが動揺しているのだ。
「今日は仕事がありますので、夜頃に戻ります。無理をしないでくださいね」
「はい」
レオンハルト様が部屋を出て行ったあと、わたしは小さく息を吐いた。静かになった部屋で、ふと視線が窓の外へ向く。
美しい青い空。どこまでも高く、澄み切った青。その色を見た時、頭の奥底に封じ込めていた記憶が蘇ってきた。
あの日も、こんな空の色をしていた。
——二年前。十六歳の夏のことだった。当時、わたしはまだ自分の足で走っていた。
侯爵領の北に広がる森は、夏になると深い緑に包まれる。木漏れ日が揺れて、風は草の匂いを運び、遠くからは川が流れる音が聞こえていた。
この日、わたしは馬で駆けていた。愛馬アスターの背で、風を切る感覚が好きだった。身体を思い通りに動かせることがあんなにも自由で幸せだとは、この時のわたしは考えもしていなかった。
「セレナ様、あまり先へ行かないでください!」
後ろから護衛騎士の声が飛ぶ。わたしは振り返って笑った。
「大丈夫ですよ!」
その笑顔は、今よりもずっと無邪気だったのだろう。
森の奥に進むと、その日はレオンハルト様もいた。黒馬に跨る彼の黒髪に陽が反射して輝いている。公爵家の嫡男であり、お父さま同士が親しい関係だということから、幼い頃からよく遊んでいた。
当時のわたしにとって彼は、年上のお兄さまのような存在で、完璧すぎる人、という印象だった。優しくて、頼りになって、でもどこか遠い存在。恋をしていたかと問われれば、分からない。ただ、彼に褒められると嬉しかった。彼の前では恰好悪いところを見せたくなかった。そのくらいの感情だったと思う。
「遅いですよ、セレナ」
「レオン様こそ、先に行かないでください」
彼は小さく笑った。その笑みは今よりも幼くて、柔らかかった。
「今日は機嫌が良さそうですね」
「だって、お天気が良いのですもの。遠出日和です」
わたしは彼にアスターを寄せた。近づくと、彼の香りがした。今と変わらない、優しい匂い。
「競争しましょう」
わたしがそう言うと、レオンハルト様は呆れたように眉を下げた。
「護衛が泣いてしまいますよ」
「少しだけです!」
返事を待たずに、わたしはアスターを走らせた。風が頬を打ち、木々が流れていく。後ろからレオンハルト様の声が聞こえた気がしたけれど、笑いながら振り切った。
あの時のわたしは、本当に幸せだったのだと思う。だからこそ……その後の出来事を、思い出したくない。
最初に異変に気付いたのは、アスターだった。突然耳を伏せて、低く嘶いたのだ。わたしは慌てて手綱を引いたけれど、彼女は従わない。怯えたように後退っていく。
森が静かすぎた。いつもは鳴り響いている鳥の声が消えていて、風まで止まってしまったかのようだった。
次の瞬間、地面が揺れた。低い唸り声と共に、木々の奥から黒い影が現れる。巨大な狼のような魔物だった。全身を黒い瘴気が覆い、黒い瘴気が纏わりついている。
その目がわたしを捉えた時、全身に悪寒が走った。
「っ……!」
アスターが暴れる。恐怖で理性を失った彼女を制御することはできなかった。わたしはなんとか手綱を握りしめるが、手が滑る。
「魔物だ! 囲まれているぞ!」
護衛の叫び声に近い大声が遠くから聞こえた。その声が届くよりも早く、もう一体別の魔物が現れた。それは一直線にわたしに向かってくる。
アスターが勢いよく横へ跳ねると、視界が大きく傾いた。空と地面が反転したような錯覚。
落ちる——。
そう思った時、誰かの腕がわたしを抱き寄せた。
「セレナ!!」
レオンハルト様だった。彼は馬から飛び降りて、落下するわたしを空中で抱きかかえて受け身を取った。地面に倒れるわたしたちに向かって魔物が迫る。
その時、レオンハルト様の魔力が爆発的に膨れ上がった。
彼は片腕でわたしを抱き、もう片方の手で防御魔法を展開した。一般的には詠唱が必要とされる魔法だが、彼ほど優秀な魔術師には必要がなかった。
いつもなら、彼は決して魔法の発動を誤ることはない。だがこの時、彼は片腕でわたしを庇っていた。焦っていて、魔力操作に影響が出てしまったのだろう。
光が弾け、世界が白く染まった。耳をつんざく轟音と共に、何かが身体を貫いた。
わたしは地面に投げ出された。身体中が痛くて、息ができなかった。遠くで誰かが叫んでいる。
「セレナ、セレナ……! 返事をしてくれ!!」
「レオン……さま……」
声が掠れる。身体が動かない。特に足が、何も感じない。不思議なくらい、感覚がなかった。
わたしを抱き上げるレオンハルト様の手が震えているのは分かった。
「ごめん……ごめん、セレナ……!」
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。魔物を消し飛ばした代わりに、余剰魔力がわたしの足を直撃したのだと知ったのは、もっと後のことだった。
その時のわたしは、ただ彼の顔を見ていた。深緑の瞳が絶望に染まっている。血の気を失った顔。こんなレオンハルト様を見たことがなかった。完璧で、冷静で、何でもできる人だと思っていたのに、その彼が、泣きそうな顔でわたしを抱きしめている。
「お願いだ、死なないでくれ……!」
わたしはぼんやりと思った。そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ、と。
言おうとしたけれど、声にならなかった。意識が沈み、痛みも音も、遠ざかっていく。
最後に見えたのは、残酷なまでに美しい青空だった。
ゆっくりと目を開けると、頬が濡れていた。いつの間にか泣いていたらしい。窓の外の青空が滲んで見える。
あの日から、すべてが変わってしまった。わたしの足は思うように動かなくなって、レオンハルト様がわたしの傍から離れなくなった。そしてわたしは、彼の優しさに縋るようになってしまった。
わたしはそっと涙を拭う。今でも、あの時の彼の顔を忘れられない。




