第4話
朝から雨が降っていた。空は灰色の雲に覆われ、窓には細かな水滴が張り付いている。庭の花々は夜露を含んで重たげに垂れ、いつもなら明るく見える庭も今日はどこか冷たい雰囲気を纏っていた。
わたしは早くに目覚めた。けれど、起き上がる気にはなれず、ぼんやりと天井を見つめながら雨音を聞いている。
昨夜はほとんど眠れなかった。目を閉じるたびに、王城で耳にした言葉が蘇る。そのたびにあ胸が締め付けられて、呼吸が浅くなりそうだ。どうしてこんなにも苦しいのだろう。
レオンハルト様に好きな方がいても、おかしくはない。美しく聡明で、誰にでも優しいあの人が、わたしのように足の不自由な婚約者だけを見ているはずもない。そう頭では理解しているのに、心が納得できない。
わたしは毛布を胸元まで引き寄せる。自分がこんなにも醜い感情を抱いていることが、ひどく恥ずかしかった。わたしは、嫉妬しているのだ。認めたくないけれど、それ以外に説明がつかない。
事故のあと、レオンハルト様はずっとわたしのそばにいてくれた。食事を運んで、髪を結って、車椅子を押して、夜中には足を温めてくれた。その優しさに甘えてしまっていたのだ。いつしか、その優しさがわたしだけに向けられているのではないかと錯覚するほどに。
……本当に、愚かだわ。
うつ伏せになろうと身体を動かしていると、控えめに扉が叩かれた。
「セレナ様、朝食をお持ちしました」
侍女のミーアだ。
「……入って」
小さな返事だったけれど、彼女には聞こえたのか部屋に入ってくる。ワゴンにのせられた朝食から、パンと紅茶の香りが漂った。いつもならおいしそうだと思うのだけれど……今、食欲はない。ミーアはテーブルを整えながら、ちらりとわたしを見た。
「昨夜はよくお休みになれましたか?」
「ええ……まあ」
曖昧に答えてしまったけれど、彼女は言及しない。優しく微笑みながら、慣れた動きでわたしの身体を支えてくれる。
「レオンハルト様がお見えになっています。お呼びしますか?」
「ええ……」
彼と一緒にこの部屋でご飯を食べるのは、いつものことだ。いつも通りのことだけれど、今日はなんだか気が重い。
ミーアに手伝ってもらいながら、車椅子に移る。鏡の前に移動して、自分の姿を見つめた。映っている自分は疲れた顔をしている。昔なら、こんな顔で人前に出ることなど絶対にしなかっただろうけど、彼にはたくさん恥ずかしいところも見られているので、今更整える気にもなれない。
ミーアが部屋の外に出て、レオンハルト様を連れてきた。彼はわたしを見ると、綺麗な笑みを浮かべる。
「おはようございます、セレナ」
「おはようございます、レオン様」
いつも通りの挨拶だけれど、声が硬くなってしまったかもしれない。レオンハルト様は、気づいただろうか。
彼はわたしに近づいて、自然な動作でわたしの髪に触れた。
「少し乱れていますね」
彼の指がわたしの髪をすくう。丁寧な手つきに鼓動が速くなるけれど、同時に虚しくなった。この手は昨日、わたしの知らない女性を抱きしめていたのだろうか。
……聞けばいい。誰と会っていたのですか、と。抱きしめていたのですか、と。
でも、もし本当だったら? もし、当然のように「はい」と答えられたら? その時、わたしはどんな顔をすればいいのだろう。彼の幸せを願って微笑むべきだろうか。それとも、嫉妬して彼に怒るべきだろうか。
わたしがそんなことを考えているとは露にも思っていないであろうレオンハルト様は、髪を整え終えるとわたしの顔を覗き込んだ。
「顔色が悪いですね。眠れませんでしたか?」
「少しだけ、考え事をしていました」
「どんな?」
聞かないでください、と反射的に答えようとしたけれど、冷たすぎると思って堪えた。深緑の瞳を見ていられなくて視線を逸らす。
窓の外では雨が強くなってきている。灰色の空に、濡れていく窓。まるでわたしの心みたいだと思った。
「大したことではありません」
レオンハルト様はしばらくわたしを見つめていた。深緑の瞳が探るように細められる。わたしはその視線に耐えられず、ぎゅっと目を閉じた。
「……レオン様」
声を絞り出すと、彼は「はい」と応じながら優しく微笑んでくれる。
今だ。今なら聞ける。昨日、本当はどなたと会っていたのですか、と聞きたかったのに、口から出たのはまったく違う言葉だった。
「今日は、お忙しいのですか?」
わたしは何を言っているの。そんなことが聞きたいわけじゃない。
レオンハルト様は意外そうに瞬きをした後、穏やかに微笑んだ。
「午前中に少し予定がありますが、午後は空けています。セレナと庭を散歩しようと思っていました」
「……そうですか」
「嫌でしたか?」
「いいえ」
嫌なわけがない。本当は、彼がわたしのために予定を空けてくれていることが嬉しい。嬉しいけれど、苦しい。もし他に大切な人がいるなら、こんなふうに期待させないでほしい。でも、それを言う視覚がわたしにあるのだろうか。
レオンハルト様は膝を折ってわたしと目を合わせる。距離が近い。彼の睫毛の長さがよく見えてしまう。
「セレナ。昨日から、様子がおかしいですね」
どくり、と心臓が跳ねた。気づかれている。彼の目を誤魔化せないことなんて、分かり切っていることなのに。
「私が何か不快なことをしてしまいましたか?」
その問いに、目元が熱くなってしまう。このまま聞いてしまえばいい。あなたが別の女性と会っていて抱き合っていたと聞きました、と。でもそれを言った時、自分の嫉妬が露わになってしまう。レオンハルト様にとって、わたしは責任を取るべき相手でしかないかもしれないのに。そんな相手に嫉妬をぶつけるなんて、あまりにもみっともない。
わたしは唇を噛んだ。すると、レオンハルト様の瞳が心配そうに揺れる。それを見ていると、余計に何も言えなくなってしまう。
この人を困らせたくない。重荷になりたくない。嫌われたくない。そういった思いが、言葉を喉の奥へ押し戻していく。
わたしはゆっくりと首を振って、目を伏せた。
「……何も」
レオンハルト様がじっとわたしを見ているのが分かる。「本当に?」と問いかけられているようだ。けれど彼は、それ以上追及してこない。ただ小さく息を吐いて、いつもの穏やかな声で言う。
「無理に話さなくても構いません。言いたくなった時に、教えてください」
彼の優しさに、わたしは泣きそうになった。どうしてあなたはそんなに優しいの。問い詰めてくれた方が、いっそ楽かもしれないのに。
レオンハルト様は立ち上がって、窓の外を見た。雨は、どんどん強くなっている。
「この雨では、散歩は難しそうですね」
「ええ……」
「代わりに、温室へ行きませんか? 身体も冷えませんし、ゆっくりと花を見られますよ」
わたしは頷いて微笑もうとしたけれど、うまくできなかった。




