第3話
王城の回廊を、レオンハルトは足早に歩いていた。手にしている数枚の書類が、彼の歩調に合わせて揺れる。
本来なら、もう少し時間をかけて確認したかった。王立治癒院から渡された新たな資料だ。神経と魔力回路を再接続させる研究についてのものだが、成功率はかなり低いらしい。しかし、可能性が少しでもあるのならと、彼は二年間ずっと調べ続けてきた。
彼女に期待させて、傷つけたくない。それでも諦めることだけはできなかった。セレナが再び自らの足で歩く姿を、どうしても見たいのだ。
たとえそれが、自分の手で壊してしまった未来であっても。
来賓部屋の前で足を止める。
「セレナ、戻りました」
扉を叩きながらそう声をかけるも、返事はない。眠ってしまったのだろうか。彼は表情を和らげ、扉を開けた。そして、動きを止める。
部屋の中には誰もいなかった。テーブルの上の水差しは半分ほど減っている。確かに彼女はここにいたはずだが……今は、いない。
「……セレナ?」
彼の視線が空虚な空間を彷徨う。理解が追いつかない。彼は部屋を一通り確認し、隣室を覗き、すぐに廊下へ飛び出した。
「誰か!」
鋭い声が響く。近くにいた侍女がびくりと肩を震わせた。
「セレナ——車椅子に乗った令嬢を見なかったか?」
「え、あ、あの……」
侍女は怯えている。レオンハルトは魔力が溢れていることに気づいていたが、抑えられなかった。腹の底から、冷たい恐怖が這い上がってくる。
「お一人で……帰られました」
その言葉を聞いて、世界が一瞬遠のいたような錯覚を味わった。
「……一人で?」
「は、はい。車椅子を、一人で動かして……」
レオンハルトの顔から血の気が引いた。あの車椅子は、人の手で動かされることを前提に作られたものだ。長距離を一人で操作することなど想定していない。少しでも魔力操作を誤れば、転倒の危険がある。大怪我をしてしまうかもしれない。
彼は無意識に拳を握りしめた。なぜ、どうして、という言葉が頭を巡る。何かあったのだろうか。セレナは、無意味に約束を破るような人ではない。
「どれくらい前だ」
「十五分ほど前かと……」
十五分あれば、まだ馬車に乗っている頃だろうか。そう考え、レオンハルトは踵を返す。
「馬を出せ」
その声には一切の感情が籠っていなかった。
侯爵邸に着き、馬から降りると、ほとんど駆けるように玄関へと向かう。彼の姿を見た使用人たちが驚いた様子で頭を下げた。
レオンハルトと彼女はまだ結婚はしていないが、セレナの療養のため屋敷に身を寄せている。そのため使用人たちも、彼が突然現れても驚くだけで焦ることはない。
「セレナは戻っているか?」
「お、お部屋に……」
最後まで聞かず、彼は階段を駆け上がった。
彼女の私室の前で足を止め、深く息を吸う。感情のままに怒ってはいけない。叱ってはいけない。まず、無事を確認することが最優先だ。
そう自分に言い聞かせて、扉を叩く。
「セレナ。いますか?」
返事がない。もう一度、今度は強めに叩く。
「セレナ、私です。入ってもいいですか?」
しばらくして、かすかな声が返ってきた。
「……どうぞ」
その声が聞こえた時、胸を締め付けていた恐怖が少しだけ和らぐ。無事だったことに安心しながら、レオンハルトは扉を開けた。
窓際に、セレナはいた。椅子に座りながら外を見ている。陽の光が銀色の髪を照らし、淡く輝いている。その背中が今にも消えてしまうのではないかと不安になり、彼女に近づいた。
「お怪我はありませんか」
「……ありません」
セレナは振り返らずに答える。
「途中で転んだり、躓いたりは……」
「していません」
返答は短い。そしてその声はいつもよりも硬い。彼女は怒っているのだろうか。……いや、彼に対して心を閉ざしているのだろう。
彼はゆっくりと彼女の前に回り込んだ。セレナは目を伏せたまま、彼を見ようとしない。彼女の膝の上では、指先が白くなるほどに手が強く組まれている。それを見ると、レオンハルトの胸が痛んだ。
「どうして、一人で帰ったのですか」
責めるつもりはなかったが、僅かに語気が強かったのだろうか。セレナの肩がびくりと震える。
「……帰りたくなったからです」
「それなら誰かを通して、私に伝えてくだされば良かったのに」
「レオン様は、お忙しかったのでしょう? お邪魔をしたくありませんでした」
彼女の声に棘を感じ、レオンハルトは息を呑んだ。彼女の目を見つめ、その感情を読み取ろうと試みる。目元が少し赤い。泣いていたのだろうか。
王城で彼がいない間に、誰かに何か言われたのか。彼女が傷つくような何かを。
「何か、ありましたか?」
「……何も」
セレナは首を振るが、これは嘘だ。彼女は嘘を付くことが下手すぎる。目を合わせない時は、大抵何かを隠している。
「辛いことがあったのなら、私に話してください」
彼女の睫毛が震えた。その瞳が一瞬だけ彼を見るが、すぐに逸らされる。
「話すようなことではありません」
「セレナ。私は……」
「レオン様」
ようやく、彼女がまっすぐと彼を見た。淡い青色の瞳に浮かんでいるのは、怒りや悲しみではない。諦めに似た色だ。その目を見た時、レオンハルトの胸がひどくざわつく。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
ぺこりと彼女は頭を下げる。まるで壁を一枚挟まれているかのような距離感に、彼は言葉を失った。
怒ってくれる方がよかった。感情をぶつけてくれれば、向き合い方はいくつもあるのに。泣いてくれた方がよかった。その涙の理由がどこにあるのかが分かるだけで、救いになるのに。このように距離を置かれることの方が、ずっと怖い。
彼は彼女の手に触れようとした。しかし彼女の手がわずかに引かれる。そのほんのわずかな動きで、心臓を掴まれたような痛みが走った。
その痛みに気づかれないように、彼はそっと息を吐いて心を落ち着かせた。
「……無事で、本当に良かった」
彼の言葉に、セレナの目が見開かれる。彼女の表情の揺れが何を意味しているのか、彼には読み取ることはできなかったが、嫌な予感が胸を満たしていった。
どうしてそんなに辛そうな顔をする。自分は何かを間違えたのか。ずっとどこかで間違い続けていたのか。
セレナは何かを言いかけるように唇を動かしたが、声にはならない。これ以上彼女を刺激するのはよくないと判断し、彼はその場で立ち上がった。
「今日はもう休みましょう」
できるだけ、穏やかな声を出すよう意識する。自分の内側では焦りが消えていない。彼女が一人で帰った理由も、途中で何を感じて涙を流していたのかも、何ひとつ分かっていない。
様々な感情を抑え込みながら、彼は窓に歩み寄ってカーテンに手を伸ばした。カーテンを閉じて、部屋の灯りを点ける。彼が部屋を整えている間、セレナはずっと黙っていた。何かを言おうと何度か口を開いているようだが、言葉が出ることはない。
レオンハルトも声をかけようかと迷ったが、今何を言うことが適しているのか分からなかった。心の中には不安が満たしていく。
自分は彼女を守っているつもりで、何かを見落としているのではないか。守という行為そのものが、彼女を追い詰めているのではないか、という可能性に気づいた瞬間、背中に冷たいものが走った。ただ、確かめる術がない。問いかける勇気も持てない。
机の上の水差しに新たな水を注いでいると、背後でかすかな衣擦れの音が聞こえた。振り返ると、セレナが立ち上がろうとしていた。だが足に力が入らないのか、身体が前に傾いた。
「セレナ!」
彼は反射的に動き、駆け寄ってその身体を抱き留める。軽い。あまりにも軽い。
腕の中に収まった彼女は、驚いたように目を見開いたまま、小さく身じろぎをした。
「……お手を煩わせてしまってごめんなさい。ですがわたしは、大丈夫です」
その声は震えているが、その言葉とは裏腹に、彼女の指は彼の服を弱々しく掴んでいる。離れることを望んでいるのか、彼に縋っているのか、自分でも分かっていないのだろうか。
レオンハルトは少し目を閉じる。そして何も言わずに彼女を抱き上げた。
「下ろして……ください」
「あなたはお疲れでしょう。休んでください」
彼は腕の中の彼女を支え直した。寝台まで運ぶ間も、彼女は抵抗を続けている。その力はやはり弱く、やがて彼女は諦めたように彼の胸元に頭を預けた。その時、彼の胸の奥では何かが軋む。
——ああ、まただ。彼女は、自分に縋るしかない。
そんな甘やかな考えが浮かび、嫌悪が喉元までせり上がってくる。彼はそれを飲み込みながら、彼女を優しく寝台へ下ろした。セレナはそっぽを向いて、彼の方を見ようとしない。
「食事の時間になれば、呼びに来ます」
セレナが頷いたことを確認し、彼は柔らかく微笑んで背を向ける。
彼女の部屋を出てから扉の前で立ち尽くす彼は、強く手を握りしめた。




