後日談
レオンハルト様との結婚式の日、わたしは何度も泣いてしまった。
最も号泣してしまったのは、彼が「これから生涯をかけて、あなたを幸せにします」と誓ってくれた時。わたしが涙を流していると、彼は困ったように笑いながらそっと涙を拭ってくれた。その手つきが優しくてもっと涙が出てきたのは言うまでもないことである。
もしわたしが心の殻に閉じこもって、彼の優しさを責任や罪悪感だと捉え続けていたら、こんな幸せな日は訪れることはなかったかもしれない。本当のレオンハルト様の愛は、少し不器用で、かなり重くて、時々怖くなるほどのものなのだ。
式から数日後。わたしは正式にレオンハルト様の屋敷に移ることになった。
公爵家本邸——王都でも有数の広さを誇るその屋敷を前に、わたしは思わず息を呑んだ。何度か目にしているはずなのに、何度見ても慣れることはない。まるで絵本に出てくるお城のようである。
けれど、真に驚いたのは屋敷の中にい入ってからだった。
「……え?」
レオンハルト様に車椅子を押してもらいながら廊下を進む途中、わたしはきょろきょろと辺りを見回す。
まず、玄関に段差がない。車椅子に座ったまま、滑らかに進める。廊下は広くて、曲がり角もゆるやかに作られている。用意してくださったわたしの部屋に向かう途中には自然な傾斜の通路まで設けられていて、部屋の扉は軽く押すだけで開き、取っ手の位置も低かった。
「レオン様、これ……まさか、全部?」
「……ご想像の通りです」
レオンハルト様は軽く咳払いをする。
「あなたができるだけ快適に過ごせるように、改良しました」
わたしは言葉を失ってしまった。改良という規模ではない。屋敷そのものが、わたしの生活に合わせて作り替えられたと思えるほどである。これらは不自然なものではなく、屋敷の豪華さを損なうことなく、まるで最初からこういう設計で作られていたかのように溶け込んでいる。
「これは、いつから……」
「あなたと婚約した頃から少しずつ」
つまり二年以上前から準備を進めていた、ということだろうか。わたしが呆然として彼を見上げると、レオンハルト様は困ったように微笑んだ。
「驚かせるつもりはなかったのですが」
「驚くに決まっていますよ!」
思わず大きな声で言ってしまう。彼は少し肩をすくめ、わたしの頭を撫でた。
「ですが、あなたにとって心地よい居場所を作りたかったのです。あなたがずっと『ここにいたい』と思えるような場所を」
その言葉に、胸がじんと熱くなる。
レオンハルト様に促されて、わたしは一人で車椅子を動かしながら廊下を進んだ。小さな段差もないので、転ぶ心配もなくどこへでも行けるようになっている。
「……すごい」
そう呟くと、レオンハルト様は照れたように笑った。
「実は、他にもあるのですよ」
「え?」
彼は書斎に案内してくれた。そこには、何かの図面が山のように積まれていた。手に取ってみると、軽量の車輪や片手でも容易に操作できる杖、手の力が弱くても使える食器、魔力で高さが変わる椅子などの設計資料であることが分かる。
「これ、全部レオン様が?」
「職人や魔導技師にも協力してもらいました。あなたのために考えていたら、様々な案が浮かんできたものですから」
その結果、これらの品は王都の工房で量産が始まり、今では各地の治癒院や施設に広がっているらしい。戦で足を失った兵士や病で歩けなくなった子ども、高齢で移動が難しい人々など、多くの人の生活を支えているという。
わたしはしばらく、何も言うことができなかった。彼は当然のことのように話しているけれど……あまりにも、突然のことで。彼の案は多くの人の心を救ったことだろう。
「……レオン様は、世界を変えたのかもしれませんよ」
「すべてはあなたのためだったのですけどね」
その言葉があまりにも彼らしくて、わたしは笑いながら泣きそうになった。
数日後。この日、レオンハルト様に連れられて厩舎に向かった。空気は澄んでいて、自然の匂いが心地よい。
「今日は何をするのですか?」
彼を見上げて尋ねると、彼は柔らかく微笑んだ。
「あなたに会わせたい相手がいます」
着いた場所は、厩舎だ。レオンハルト様が扉を開けた時、わたしは思わず息を止めてしまった。
栗色の毛の馬が、じっとわたしを見ている。
「……アスター?」
わたしの声が聞こえたのか、アスターは耳をぴくりと動かした。そして鼻を鳴らしながら、ゆっくりとわたしに近づいてくる。
涙が滲んできた。事故の後、二度と彼女に乗れないと思うと辛くて、怖くて、ずっと会いに行くのを避けていた、わたしの愛馬。
「わたしのことを、覚えているの……?」
アスターは答える代わりに、わたしの肩に鼻先を押しつけた。温かくて、懐かしい。
わたしは震える手で、彼女の首を撫でる。アスターは目を細め、嬉しそうに喉を鳴らした。
「彼女は、あなたのことをずっと待っていたのですよ」
レオンハルト様の声も優しい。わたしは涙を拭いながら笑った。
「今まで会えなくてごめんなさい。ずっと会いたかった」
アスターはまるでわたしの言葉を理解したかのように、もう一度鼻をすり寄せてきた。
「ソメリアに許可を頂きました。今日は、少しだけ乗ってみませんか?」
レオンハルト様の言葉に、わたしは驚いて彼を見る。
「わたしが、ですか?」
「ええ。私が後ろから支えます」
事故の日に、彼女の上から落ちた時のことを思い出すと、恐怖はある。でもアスターの温もりに触れていると、挑戦したいという気持ちが勝った。
わたしが頷くとレオンハルト様は目を細め、特別に改良したという鞍を見せてくれた。横から乗りやすく、身体を安定させる補助具が付いているらしい。
「これもレオン様が開発したのですか?」
「もちろん」
彼は少し得意げだ。
「本当に何でも作ってしまわれますね」
「セレナのためなら」
そうやってさらりと言うのはやめてほしい。心臓に悪いから。
レオンハルト様が腰を支え、わたしの身体をゆっくりと持ち上げる。アスターはわたしが乗りやすいように身を屈めてくれている。
わたしが鞍に座ると、懐かしい高さが視界に広がった。それだけで、胸がいっぱいになる。
「怖くはないですか?」
いつもわたしよりも高い位置にあるレオンハルト様の顔が、今は下にある。わたしは少し考えて、首を振った。
「いいえ。とても嬉しいです」
心からの言葉だ。失ったと思っていたものが、少しずつ戻ってきている。
レオンハルト様も馬に乗って、後ろからわたしを抱きしめるように支えてくれる。しっかりと回されたその腕は心強く、わたしはそっと彼の身体に身を預けた。
「行こう、アスター」
声をかけるとアスターは返事をするように鼻を鳴らし、ゆっくりと歩き出した。風が頬を撫で、わたしはそっと目を閉じる。
何度も感じたことのあるこの風。もう二度と得ることのないと思っていた時間。けれど今、完全に同じではなくても、新しい形で戻ってきている。
レオンハルト様の腕に力が込められる。そして彼は、耳元で囁いた。
「セレナ。これから、少しずつ取り戻していきましょう」
わたしは空を見上げた。あの日と同じ、高く、青い空。
「はい。レオン様と一緒なら、何でもできそうです」
そう言って、微笑んだ。




