前日談・後日談
その夜、レオンハルトは三度目の薬を飲ませた。高熱で朦朧としているセレナは、差し出された杯をうまく持つことができず、震える手から薬が零れ落ちる。彼は慌てて彼女の手を支えた。
「ゆっくりで大丈夫です」
自分が出せる最大限の優しい声を出す。セレナは薄く目を開けて、焦点の合わない瞳を彼に向けた。頬は熱で赤く染まり、額には汗が滲んでいる。
「……レオン、さま」
彼女の辛そうな声を聞くたびに、自分のせいで彼女が苦しんでいるという事実が心臓を抉っていく。レオンハルトは杯を置いて、冷たい布で彼女の額を拭った。彼女の命が燃えているのではないかと思うほどに、熱い。
「痛みますか」
彼の問いに、彼女は足の方に視線を向けて、わずかに頷いた。彼の余剰魔力は彼女の全身を襲ったが、特に足に直撃したため衝撃が大きく、その痛みは数日経った今でも引くことはない。
——自分がやった。魔物から守ろうとした結果、彼女を傷つけた。
あのまま彼が何もしなければ、彼女は間違いなく死んでいた。彼は彼女の命を救ったのだと多くの人間からは言われるが、彼は己を許せない。もし彼女の痛みを引き受けられるのならば、その痛みのすべてを彼に与えてほしい。
「申し訳ありません」
喉から絞り出された声は、ひどく弱かった。セレナは浅く呼吸をしながら、ゆっくりと首を振る。
「ちが……います」
何が違わない。違うはずがない。彼女はこんな状態になっても、彼を責めることはなかった。その優しさが、余計に彼の心を刻んでいく。
レオンハルトは彼女の冷えた足を両手で包み込み、魔力を流し込む。魔力回路が途切れてしまったせいで彼女の足には魔力が滞っている。それをほぐさないと、彼女の中の痛みは消えることがない。それを知った彼は、毎日のように彼女の足に触れ、魔力を流しているのだ。ちなみにこれはかなり緻密な魔力操作を必要とするので、彼以外が上手く行うことはできないだろう。
しばらく魔力を流し続けると、セレナが小さく息を吐いた。少し楽になったのだろうか。その反応に、彼の胸は甘く疼く。
ああ。これは、自分にしかできないことだ。この痛みを和らげることができるのは、自分だけ。
そう思うと同時に、彼は己を呪う。彼女が苦しんでいる原因は彼だ。彼女の痛みを作った元凶が、彼女の痛みを和らげて優越に浸ることなど、あってはならないことである。
レオンハルトが唇を噛みながら俯いていると、セレナの指が彼の袖を弱々しく掴んだ。
「……いて、ください」
「はい。私はここにいます」
彼は彼女の手を優しく包み込む。優しくしないと、壊してしまいそうなほどに弱く
て小さい。
「……怖くはありませんか」
気づいたら、彼はそんなことを尋ねていた。彼女を傷つけた彼が怖くないのか。そういう意図なのかも分からない。ただ、気づいたら口に出していた。
セレナは不思議そうに瞬いて、そして小さく頷く。
「こわい、です。このまま、あるけなく……なったら」
その言葉に、レオンハルトの呼吸が奪われた。心臓に刃を突き刺されたかのような痛みが走る。
歩けなくなるという可能性を、彼女に伝えることはまだできていない。それなのに彼女は理解してしまっているのだろう。
まだ十六歳なのに。本来なら未来に胸を躍らせているはずの少女が、こんな恐怖を抱えている。……すべて、自分のせいだ。
レオンハルトは彼女の手を自らの額に押し当てた。
「私がいます。私が、一生をかけてあなたに償います。あなたを支えます」
……なんと甘美な言葉だろう。彼女が歩けなくなっても、彼女のそばには彼がいる。彼は一生彼女のそばにいることができる。そうして彼女が自分に縋るしかなくなって、彼女の一番が彼になって……。ぞっとするほどに、心地よい考えだ。
「レオンさま……」
セレナがぼんやりと彼の名を呼ぶ。可愛くて仕方がないその様子を見て……彼は、心の底から己を嫌悪した。
彼女を傷つけ、苦しめることになった男が何を考えている。あまりの愚かさに吐き気がした。
レオンハルトは彼女の手に口づけた。熱に浮かされている彼女は気づかない。……気づかれない方がいい。こんな醜い感情を知られてはいけない。
◆ ◆ ◆
——セレナが眠ったのを確認してから、レオンハルトはようやく息を吐いた。
彼の愛する妻は、彼の腕の中で寝息を立てている。頬はほんのりと赤く、服は少しはだけていて、先ほどまでの行為を思い起こさせる。
レオンハルトはその光景を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。
……可愛い。どうしようもなく、愛おしくてたまらない。
彼は手を伸ばし、彼女の頬にかかった髪を耳へかける。彼女は小さく身じろぎをしたが、目を覚ますことはなかった。その仕草も愛おしくて、胸が締め付けられる。
「可愛い」
声に出しても、誰も聞いてはいない。そのため遠慮する必要もない。
レオンハルトは小さく笑う。最近、彼は遠慮することが少なくなっていた。彼女と結婚してからは特に、である。好きだと伝えることも、抱きしめることも、己の醜い感情をさらけ出すことも。彼女は時々困ったように笑うけれど、彼を拒絶することはない。その笑顔を見るたびに、もっと愛したくなってしまう。困ったものだ。
彼はそっと彼女の手を取った。相変わらず細い手だけれど、以前よりも力強くなった気がする。
彼女は確かに前に進んでいる。まっすぐ前を向いて、自分の未来を見据えている。そんな妻を誇らしく思うと同時に、まだ少しだけ思ってしまう。もっと自分を頼ってくれてもいいのに、と。
治らないでほしいなどとはもう思わない。昔のような醜い願いではなく、ただ彼女に必要とされたい。それだけだ。
……いや、それだけではないかもしれないけれど。
レオンハルトは眠るセレナを見つめる。ふと、彼女を傷つけてしまった頃のことを思い出した。高熱に浮かされて、彼の手を掴んで反さなかった少女。
『……いて、ください』
泣きそうな声でそう言った彼女。あの時の彼は、罪悪感と恐怖、そして彼女に必要とされる甘さに呑まれ、壊れていた。最低な感情を抱いた己を今でも許してはいないが、あの夜から——それよりもずっと前から、彼は彼女を愛していた。
初めて彼女に会った時から、きっと彼は少しずつ狂っていたのだろう。彼女のすべてが眩しくて、彼女のすべてが欲しかった。
しかし彼は、彼女を傷つけた。守りきれなかった。あの時から彼には、愛を口にする資格などないと思っていた。償うつもりだった。彼女に責められても、拒絶されても、人生をかけて贖おうと考えていた。その考えがいつしか歪んでしまってはいたが……。
こうして彼女と想いを通じ合わせていることは、今でも時々夢なのではないかと思う。こんな幸せが自分に許されるのだろうか。赦されなかったとしても、もう手放すことはできないのだけれど。
レオンハルトは彼女の頭を抱き寄せ、その額に口づけを落とした。彼女は眠ったままだが、その感触が伝わったのか、わずかに眉を緩める。その反応が可愛くて、胸が苦しくなった。
彼女のすべてが愛おしい。どれだけ見つめても、飽きることはない。そっと彼女の頭を撫でていると、彼女が「ん……」と呻いた。
「どうしました、セレナ」
彼は嬉しくなって、彼女を抱き寄せる。温かい。腕の中に収まる柔らかな重みが、これは現実だと教えてくれる。
今までは、この温もりを失うことばかりを怖がっていた。当然今も怖いし、恐らくこの先もずっと怖いだろう。だが以前と違うのは、彼女も自分を選んでくれているということだ。その事実が、どれほど彼を救ったことか。
レオンハルトは彼女の髪に顔を埋める。甘い香りが鼻をくすぐった。
「閉じ込めておきたいな」
ぽつりと本音が零れた時、彼女が彼の胸に頬をすり寄せた。無意識の行動なのだろうが、彼の理性が飛びそうになる。
「……閉じ込められたいのですか?」
彼女はすやすや眠っている。こんなにも無防備に、こんなにも安心しきった顔で、自分の腕の中で眠っている。それが、たまらなく幸せだった。
「おやすみ、セレナ」
彼は最後に、唇に触れるだけの優しい口づけを落とした。そしてそのまま、愛おしい妻を腕の中に抱きしめながら、その幸せを噛みしめ続けた。




