第17話
レオンハルト様が帰って来てから二日後、わたしは庭に出ていた。車椅子を押しているのは、レオンハルト様ではなくルークである。
前回の一件以来、彼に頼むことは躊躇っていた。でもレオンハルト様本人が「侍女が近くにいるなら許可します」と言ったことで、ようやく以前のように話せるようになった。もっとも、その「許可」という言葉にかなり引っかかったのだけれど。
「今日は調子が良さそうですね」
「ええ。昨夜は痛みも少なかったのです」
「それはよかった」
彼には本当に話しやすい。気を遣いすぎず、かといって無神経でもない。騎士団の失敗談を面白おかしく話してくれて、わたしは何度も笑ってしまった。
「それで、その新人騎士が訓練用の馬ではなく、団長の相場に乗ってしまって」
「まあ!」
「団長が馬よりも速く走って追いかけてきたそうです」
わたしは思わず声を上げて笑った。こんなふうに自然に笑えるようになったのは、いつ以来だろう。ルークも嬉しそうに目を細めた。
「セレナ様が笑ってくださると、こちらまで嬉しくなります」
「そんな大げさな」
「本心ですよ」
その時、後ろから聞きなれた低い声がした。
「……随分楽しそうですね」
恐る恐る振り返ると、思った通りレオンハルト様が立っていた。ルークが即座に姿勢を正す。
「お疲れ様です、レオンハルト様」
「ああ。ご苦労」
新緑の瞳がわたしに向けられる。
「何の話をしていたのですか?」
「ルークが、騎士団の話をしてくださいました。そのお話が面白くて」
わたしが答えると、彼は「なるほど」と頷いた。なぜか、彼の機嫌は悪そうに見える。
……まただ。彼はわたしがルークと話している時、こうして機嫌が悪くなる。最初は気のせいかと思っていたけれど、最近は流石に分かってきた。彼はきっと、嫉妬しているのだ。
「レオン様は、わたしがルークと話をしていると、いつも不機嫌そうですね」
むっとしながら口を開くと、ルークは「えっ」と言いたげな顔をして、レオンハルト様は一瞬黙った。
「不機嫌ではありません」
「そうですか?」
「ええ」
間髪入れずに答えることがかえって怪しい。わたしの胸の中で、長い間引っかかっていた棘が疼いた。
もう聞いてしまおう。ずっと怖くて聞けなかったことを。
「レオン様だって、女性と楽しそうにお話をしていたのではありませんか?」
意を決して言ったけれど、レオンハルト様は驚いたように目を瞬いた。
「……私が?」
「はい。わたし、聞いたことがあります。レオン様が女性と会っていて、楽しそうに話して、抱き合っていらっしゃったと」
言いながら、胸がちくちく痛む。あの日、レオンハルト様に黙って一人で屋敷に帰った日のことが蘇ってくる。
レオンハルト様はしばらく沈黙し、そして困惑したように眉を寄せた。
「……すみません。心当たりがありません」
「え?」
「その話を聞いたのはいつのことですか?」
「ええっと……先月、わたしが勝手に屋敷に帰ってしまった時の……」
慌てて説明すると、レオンハルト様は顎に指を添えて考え込んだ。不思議そうに首を傾げている。もしかしたら……あの話は、間違いだったの?
何を言おうか迷っていると、別の方向から声が聞こえた。
「あら。皆さんお揃いで」
ソメリアさんだ。彼女はわたしたちの微妙な空気に気づき、きょとんとする。
「何かありましたか?」
「セレナが、私に女性関係の疑惑をかけています」
「レオン様!」
言い方が悪い! 抗議しようと彼を見上げると、ソメリアさんは目を丸くして、それから「ああ」と声を漏らした。
「もしかして、レオンハルト様が女性と抱き合っていたという噂ですか?」
彼女も知っているのだと思いながら頷くと、彼女は数秒沈黙して、そして盛大に吹き出した。
「レオンハルト様とお会いして温室で話をしていた時、私が転びそうになって、レオンハルト様が支えてくださったのです。その場面を侍女に見られてしまって勘違いされたみたいで……。後でちゃんと訂正したのですが、まさかセレナ様がご存じだったとは」
「……うそ」
呆然と声が漏れる。
「レオンハルト様、ちゃんと説明なさらなかったのですか?」
「説明する以前に、彼女がそんな勘違いをしているとは思ってもいませんでした」
誤魔化しているわけではなく、レオンハルト様は本当に心当たりがなかったらしい。わたしは両手で顔を覆いたくなった。穴があったら入りたい。
ルークが必死に笑いを堪えているのが分かる。ソメリアさんも肩を震わせながら、「なるほど……」などと呟いている。
最悪だ。今までのわたし、勝手に勘違いして勝手に傷ついて……何だったのか。
俯いていると、レオンハルト様がそっとわたしの前に歩み寄ってきた。
「セレナ」
「……はい」
顔を上げられない。すると、彼の声が柔らかくなった。
「つまり、あなたは私が別の女性と関係があるのではないかと思い、不安になっていたのですね」
「不安になっていません!」
反射的に否定すると、彼は楽しそうに笑った。
「そうですか」
わたしはそっと視線を上げる。彼の笑顔はどこか嬉しそうだ。深緑の瞳が、今まで見たことがないほど柔らかく細められている。
彼と見つめ合うと、胸がくすぐったくなる。どきどきしていると、ソメリアさんが喉を鳴らしてにこりと笑った。
「誤解が解けて何よりです。では私は失礼しますね」
彼女は意味ありげな笑みを残して去っていった。ルークも「自分も失礼します」と彼女の後を追うようにこの場を離れる。
前のように、わたしたち二人だけが残された。気まずいけれど、前のような気まずさではない。
レオンハルト様はふっと微笑んで、車椅子の後ろに立った。
「少し冷えてきたでしょう。部屋に戻りましょうか」
わたしが頷くと、車椅子がゆっくりと動き出す。風が熱くなった頬を撫でて心地よかった。




