第9話「名を持つもの」
父と並んで、しばらく歩く。
さっき感じた“違和感”。
弱い。
でも、消えてはいない。
(……あっちだ)
自然と足が向く。
父は何も言わない。
ただ、ついてくる。
◆
村の外れ。
少し開けた場所で、数人の大人が集まっていた。
見たことのある顔もある。
知らない顔もある。
空気が、張っていた。
「……来たか」
低い声。
振り向いた男が、父を見る。
年は父より少し上に見える。
腕を組み、こちらにも視線を向ける。
「その子か」
短い一言。
じっと見られる。
(……またか)
測られているような視線。
少しだけ、息が詰まる。
「エリシアだ」
父が言う。
それ以上は説明しない。
男は小さく頷いた。
「話は聞いている」
視線を外さないまま、続ける。
「黒い影のようなもの。触れて、消えた——だったな」
(……もう、そこまで)
思っていたより早い。
話は、もう村の中だけでは止まっていない。
「本当かどうか、確かめる必要がある」
男の声は落ち着いている。
でも、軽くはない。
周りの空気も、同じだった。
◆
「……あそこだ」
誰かが指をさす。
視線が集まる。
草の奥。
少し影になっている場所。
(……いる)
はっきり分かる。
昨日と同じ。
でも——少し違う。
(……濃い)
気配が強い。
重い。
息が、浅くなる。
「下がっていろ」
男が言う。
大人たちが、ゆっくりと前に出る。
手には道具。
刃物。
見たことのない形のものもある。
(……戦うのか)
そう思った瞬間。
空気が、揺れた。
草がざわりと動く。
次の瞬間——
それは、現れた。
◆
黒い。
影のようなもの。
でも、形がある。
ゆらゆらと揺れているのに、そこに“いる”。
はっきりと。
昨日より、近い。
そして——
明らかに、違う。
「……っ」
誰かが息を呑む。
緊張が、一気に張り詰める。
「間違いない……」
男が小さく呟いた。
「“影喰い”だ」
(……かげ、くい)
初めて聞く言葉。
でも、その響きだけで分かる。
良くないものだと。
「最近、外で増えてるって話はあったが……」
男の声は低い。
「こんな近くまで来てるとはな」
影が、動く。
ゆっくり。
でも、確実にこちらへ。
「来るぞ!」
声が飛ぶ。
次の瞬間——
大人たちが動いた。
◆
刃が振られる。
影に当たる。
でも——
「効いてない!」
誰かが叫ぶ。
確かに。
斬れていない。
ただ、すり抜けている。
(……やっぱり)
昨日と同じ。
普通じゃない。
武器では、届かない。
影が一歩、踏み出す。
距離が縮まる。
空気が重くなる。
呼吸が、苦しくなる。
「くそ……!」
男が舌打ちする。
その瞬間。
視線が、こちらに向いた。
——エリシア。
(……またか)
分かっている。
あの時と同じ。
自分しか触れられない。
(……やるしかないか)
小さく息を吐く。
足を動かす。
「エリシア!」
ルナの声。
止めようとしている。
でも——
止まらない。
前に出る。
大人たちの横を抜ける。
「待て!」
声が飛ぶ。
でも、もう遅い。
◆
影の前に立つ。
近い。
昨日よりも、はっきり見える。
形が、歪んでいる。
中が、空っぽみたいに。
(……気持ち悪いな)
正直な感想だった。
それでも——
手を伸ばす。
触れる。
冷たい。
でも、ただの冷たさじゃない。
(……これだ)
意識する。
昨日と同じ。
でも、今度は少し違う。
(……流せ)
言葉にできない感覚。
それを、そのまま押し出す。
じわり、と。
何かが流れる。
影が揺れる。
歪む。
「……動いた?」
誰かの声。
関係ない。
集中する。
(……もっと)
強く思う。
広げる。
包む。
整える。
その瞬間——
ひびが入る。
影の表面に。
ぱき、と音がする。
そして——
崩れた。
◆
静かになる。
さっきまでの圧が、消える。
空気が戻る。
「……消えた……」
誰かが呟く。
誰も動かない。
ただ、こちらを見ている。
(……また、か)
手を見る。
何も変わらない。
でも——
さっきまで、確かに何かがあった。
「エリシア」
父の声。
振り向く。
その目は、前とは違っていた。
迷いがない。
はっきりと、何かを決めている。
「……お前は」
言いかけて、止まる。
その代わりに——
小さく、息を吐いた。
「……無事でよかった」
それだけ言う。
でも、その言葉の奥に、別の意味があるのが分かる。
◆
周りの大人たちも、動き出す。
さっきの男が、ゆっくり近づいてくる。
「……間違いないな」
低い声。
まっすぐこちらを見る。
「“触れられる側”じゃない」
一瞬、言葉が止まる。
そして——
「“触れる側”だ」
(……なんだ、それ)
意味は分からない。
でも——
普通じゃない、ということだけは分かる。
男は、少しだけ考えるように目を伏せてから——
「この子は、村だけじゃ収まらない」
はっきりと言った。
その一言で、空気が変わる。
遠くの話じゃない。
今、ここで決まっていく。
(……また、か)
胸の奥が、少しだけ重くなる。
でも——
逃げない。
逃げたくない。
そう思った。
小さく息を吸う。
まだ分からないことばかりだ。
でも。
(……やるしかないか)
そう思ったとき。
ほんの少しだけ——
前を向けた気がした。




