第44話「書き残すということ」
翌朝。
エリシアは少し早く目を覚ました。
窓から差し込む光を眺めながら、昨日のことを思い返す。
(……ちがった。)
森で感じた違和感。
牛が倒れた出来事。
同じではなかった。
それだけは分かった。
◆
朝食を終え、訓練へ向かう途中だった。
エリシアは立ち止まる。
(……わすれる。)
昨日は覚えていた。
でも。
何日も経ったら。
きっと少しずつ忘れてしまう。
◆
(……どうしよう。)
考えながら歩いていると。
「エリシア?」
シアラが声を掛けた。
「どうしました?」
◆
少しだけ迷う。
でも。
昨日のように話してみようと思った。
◆
「……わすれたくない。」
◆
シアラは首を傾げる。
「何をですか?」
◆
「……きのう。」
「もり。」
「……ちがった。」
◆
言葉は少ない。
でもシアラは優しく頷いた。
◆
「覚えていたいんですね。」
◆
「……うん。」
◆
シアラは少し考える。
それから微笑んだ。
◆
「では、一ついいものがあります。」
◆
資料室へ向かう。
本棚の下から、小さな冊子を取り出した。
◆
真っ白な紙が綴じられている。
まだ何も書かれていない。
◆
「これは?」
◆
「記録帳です。」
◆
「難しい文字は書けなくても大丈夫。」
◆
「丸でも。」
「線でも。」
「絵でも。」
◆
「自分が覚えていたいことを書いてみましょう。」
◆
エリシアは目を輝かせる。
◆
(……かける。)
◆
「……いいの?」
◆
「もちろんです。」
◆
「これは、今日からエリシアのものですよ。」
◆
小さな両手で、大事そうに受け取る。
◆
午後。
訓練が終わる。
子どもたちは外で遊び始めた。
◆
エリシアは中庭の木陰へ座る。
◆
記録帳を開く。
◆
まだ文字はほとんど書けない。
◆
だから。
◆
一本の木を書く。
◆
その横に、小さな黒い丸。
◆
さらに少し離して、牛のような絵。
◆
そして。
◆
首を傾げる。
◆
(……これじゃ。)
◆
(……わかんない。)
◆
少し考える。
もう一本、線を引く。
丸を二つにする。
◆
「なに描いてるの?」
アレンが覗き込んできた。
◆
「……きのう。」
◆
「もり。」
◆
「……こっち。」
◆
指差しながら説明する。
◆
アレンは真剣な顔で見ていた。
◆
「へぇ。」
◆
「日記みたい!」
◆
「……にっき?」
◆
「うん!」
◆
「父さんも書いてる!」
◆
「今日あったことを忘れないようにって!」
◆
エリシアは小さく頷いた。
◆
(……わすれない。)
◆
(……そのため。)
◆
少しだけ嬉しくなる。
◆
夕方。
局長室。
◆
シアラが静かに報告していた。
◆
「記録帳を渡しました。」
◆
局長は微笑む。
◆
「そうか。」
◆
「まだ文字は書けません。」
◆
「絵ばかりです。」
◆
局長はゆっくり頷く。
◆
「それでいい。」
◆
「大切なのは。」
◆
「上手に書くことじゃない。」
◆
「昨日の自分を、今日の自分へ残すことだ。」
◆
◆
その夜。
◆
寝る前。
エリシアはもう一度だけ記録帳を開いた。
◆
今日描いた絵を見る。
◆
(……わかる。)
◆
自分には。
ちゃんと分かる。
◆
ページを閉じる。
◆
小さく胸へ抱く。
◆
その一冊は。
まだ落書き帳のようだった。
けれど。
十年後。
二十年後。
その記録帳は、世界で誰よりも”世界を観察した者”の最初の一冊として、大きな意味を持つことになる。




