幕間その9 蜃気楼のサラリーマン
まさかそんなこと、有り得ないと思っていた。
だが、あまりにも……ずっと応援してくれていたあの人を連想する特徴が多すぎて、他人だとは思えなくなった。
(営業Aさん!?)
もしかして、そうなのだろうか。
一巻発売のちょっと前くらいから、ずっとSNSの更新がなくなっていた営業Aなのか。
作品が不人気な中で、ずっと彼女を応援してくれた、大切なファンの一人。
彼女が作品をテコ入れする際、強い影響を与えた存在でもあり……作品の方向性を示してくれた、恩人でもある。
会いたい、かどうかは分からない。
実際に会うことで、幻滅されることが怖いとは思っている。
だが、一言伝えたいことがあった。
(――ありがとうって、言いたい)
ずっと応援してくれて。
こんな不人気作品を見捨てないでくれて。
続きを書くたびに、何か告知するたびに、必ず彼は一言コメントをくれた。
『面白かったです!』
その一言に、ねこねこがどれだけ救われたか分からない。
つまらない。二番煎じ。絵が可愛いだけの凡作。読んだ時間が無駄――などなど。作品のネガティブなコメントを見かけるたびに、彼女の自信は揺らいでいた。
創作は想像以上にエネルギーを浪費する。
体力の消費はもちろん、特に心を削りながら苦労して生みだした作品を鼻で笑われるたびに、彼女は手を止めたくなった。
面白くない作品にしている自分が悪いことは分かっている。
だが、それでも……辛いものは、辛い。
だから、彼の応援の言葉はいつも彼女に元気をくれた。
たった一言。されど一言。その一言によって、彼女は何度折れかけた心を立て直したことか分からない。
勝手だが、恩を感じていた。
どうしても、ありがとうと言いたかった。
しかし……彼女が迷っていた間に、もう時計の針は進んでいるわけで。
急げば間に合う位置にいたはずだった。
だが、こんな時でさえ頭の隅には冷静な自分がいる。
(し、新刊は置かないとっ)
まだ会計がすんでいない商品を外に持ち出すと、お店に迷惑がかかる。
こういう時に勢いのままに行動できないのが『現実』だ。
漫画なら勢いのまま外に出られるし、それを誰にも咎められない。
その余計な行動が、このイベントのノイズとなり……そして、タイムロスにも繋がった。
もちろん、本を置くだけなので時間の消費は極小である。
いくら相手が早足だろうと、走れば届く距離にいたはずだった。
だが、書店を出た時にはもう――彼の姿は、どこにも見えなかった。
「…………」
呆然と、立ち尽くす。
歩道の真ん中で、通り過ぎ去る人に邪魔だという視線を向けられながらも、彼女はその場を動けずにいた。
まさしく、蜃気楼のように。
サラリーマンの男性は、もうこの場からいなくなっていた。
……つい数分前のことが、幻であったと錯覚するくらい、短い時間の出会い。
だが、ねこねこが握るクーポン券が、彼の存在を証明している。
(また、次の新刊発売日に……会えるかな)
くしゃくしゃにならないように、優しくクーポン券を握りしめた。
(お礼を、言えるかな)
恩人にお礼を言う。
その状況に既視感のあった彼女は、すぐにそれを思い出して……つい笑った。
(あはは。これって、最初の頃の風子ちゃんみたいだなぁ)
最上風子は当初、メモ帳を拾ってくれた真田にお礼が言いたい、というシナリオで話が進んでいた。
だが、大人しい彼女はお礼の一言をずっと言えなかったのである。
(風子ちゃんには、佐藤君がいてくれたけど……私には、誰もいない)
それは当たり前だ。
あれはただの創作であり、ねこねこの願いである。
『自信のない自分を、優しく見守ってくれるような存在』
それに憧れていた。
だから、佐藤悟のようなキャラを、彼女は愛している。
現実にも、彼みたいな人がいたらなぁ――と。
(……なんか、やる気が出てきたかもっ)
ギュッと拳を握って、空を見上げた。
SNSの更新停止のせいで、営業Aの最悪さえも予想していたが、なんとなく……生きているかもしれないと思えて、元気が出てきたのである。
また続きを描いていれば、彼のような強火のファンとは出会えるだろう。
たとえばサイン本のお渡し会とか、何かのイベントとか。人気さえ出れば、必然的に出会える場だって生まれてくる。
その時に、改めてお礼を言おうと彼女は決意するのだった――
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