第9話 氷の取引
足が、動かなかった。
振り返ったときにはもう、両足のすねから下が、床ごと分厚い氷に閉じ込められていた。
冷たさは感じない。ヴァルガスの鎧は寒さに強い。だが、重さと硬さは本物だ。
(いつの間に……さすが二章のボス。発動のモーションがまったく見えへんかった)
「ずいぶん落ち着いているのね」
セレスは貯水槽の入り口から、一歩も動かずに言った。
指先から、白い霧が細くたなびいている。
「……人違いだろう。俺は、ただの傭兵だ」
「その声の作り方、下手よ」
即答された。
「低く、短く話せば別人に見えると思ったんでしょう。でも、言葉を選ぶ間の取り方が、葬式のときと同じ」
(え、そこ? 声やなくて、間で見抜かれたん?)
テストプレイで、ボスの台詞の間を気にしたことなんて一度もない。
この世界の人間は、ゲームの画面よりずっと細かいところまで見ている。
観念して、俺は兜の留め金に手をかけた。
練習用の鉄兜を外すと、セレスの表情が、ほんのわずかに動いた。
「やっぱり、あなただったのね。ヴァルガス」
「……何の用だ、セレス」
口調を魔将のものに戻す。
ここで素を見せるわけにはいかない。
「何の用か、聞きたいのは私のほう」
セレスは、ようやく一歩、こちらに踏み出した。
足音のたびに、石の床に薄い霜の花が咲く。
「魔王様のご命令は、勇者の監視だったはず。それなのに、あなたは勇者を殺すための陣を、壊し方を探すような目で読んでいた」
「……壊し方など、探しておらん」
「陣の外周を、時計回りに一周しかけていたわ。触媒の石を一つずつ確かめながら。何かを"調べる"人の歩き方よ」
(見られとった。最初から全部)
言い訳を探す。
魔王軍の陣を調べる、正当な理由。ゼクスの仕掛けに不備がないかの確認。勇者を確実に仕留めるための下見。
どれを口にしても、この女には通じない気がした。
「ヴァルガス。一つ、聞かせて」
セレスは、俺の三歩手前で足を止めた。
青い目が、俺の首元を見ている。
「あなたは、聖剣に兜を割られた。それなのに、どうして首に痕がないの」
「……痕?」
「聖剣に討たれた魔将の首には、光の痕が残る。白い筋のような痕が。それが浮かんだ魔将は、例外なく三日のうちに死ぬ」
そんな設定、原作にあったか。
――いや、あった。
設定資料集の、一番最後のページだ。没になった外伝の企画書に、一行だけ。「先代勇者に討たれた魔将たちは、首に光の痕を刻まれ、三日のうちに滅んだ」。
本編では、一度も使われなかった設定だ。
だから俺は、撃破の判定と演出しか見ていなかった。煙の裏で転移すれば助かる、と。
本当に助かった理由は、たぶん、もっと単純だ。
聖剣の光が首まで届く前に、俺が煙と一緒に消えたから。
「あなたの首は、綺麗なまま」
セレスの声は、静かだった。
責めるような響きはない。ただ、事実を並べている。
「つまり、あなたは討たれていない。……討たれたふりをしたのよ。勇者の前で」
貯水槽の中が、しんと静まり返った。
どこか遠くで、水滴が落ちる音がした。
(……詰んだ)
これは、デバッガーとして言うなら、致命的な不具合の報告だ。
再現手順まで、完璧に書かれている。
「魔王様に、報告するか」
俺は、それだけ言った。
否定しても無駄なら、せめて相手の目的を知っておきたい。
セレスは、しばらく黙っている。
返ってきたのは、意外な答えだった。
「しないわ」
「……なぜだ」
「取引をしましょう」
セレスの指先から、霧が消える。
代わりに、彼女は外套の内側から、何かを取り出した。
小さな、銀の髪飾り。
雪の結晶の形をしている。
セレスは、それを握りしめたまま、俺を見た。
「あなたが討たれたふりをしたことは、誰にも言わない。魔王様にも、ゼクスにも」
「代わりに、何を望む」
「祭りの夜、この陣に近づかないで」
――は?
「この陣を守るのが、私の役目なの。誰が来ても、触れさせない。あなたが来たら、私はあなたと戦わなければならない」
セレスの声が、揺れた。
髪飾りを握る指が、白くなっている。
「だから、来ないで。それだけでいい」
(……それだけでいい、って)
祭りの夜、この陣が動けば、トロルが二十体とヒュドラが町に溢れる。
リオは死ぬ。町の人間も、大勢死ぬ。
その髪飾りが、誰のものかは分からない。
だが、セレスがその髪飾りのために、ここに立っていることだけは分かった。
原作の二章で、セレスは勇者と戦う。
戦う理由は、最後まで語られなかった。ただ、最期に彼女が呟く台詞だけが、テキストに残っている。
――ごめんね、リュシー。
テストのとき、意味の分からない台詞だと思った。
誰の名前なのか、資料のどこにも書いていなかったから。
「……約束は、できん」
俺は、正直に言った。
セレスの目が、すっと細くなる。
「そう」
足元の氷が、ぴしりと音を立てた。
すねまでだった氷が、膝の上まで這い上がってくる。
「なら、止めるわ。祭りの夜、あなたがここに来たら、そのときは本気で」
セレスは髪飾りを外套の内側にしまうと、背を向けた。
去り際に、一度だけ振り返る。
「その氷、朝には溶けるようにしてあるから」
足音が、闇の向こうに遠ざかっていった。
***
朝まで、俺は氷に足を突っ込んだまま、陣を眺めていた。
分かったことが、二つある。
一つ。この陣は、外から壊すと暴走する。
触媒の石が互いに魔力を受け渡す仕組みになっていて、一つでも割れば、残りの石が溜め込んだ魔力を一斉に吐き出す。安全に止めるには、陣が目を覚ます瞬間に、中心の紋様を内側から断ち切るしかない。
つまり、祭りの夜に、ここにいなければならない。
二つ。
セレスは、俺を殺せた。
あの距離で、あの速さで氷を張れるなら、首まで凍らせることもできたはずだ。
なのに彼女は、足だけを止めて、朝には溶けると言った。
(取引を持ちかける相手を、殺すわけにはいかん。それだけかもしれんけど)
夜明けとともに、足元の氷が、音もなく水に変わり始めた。




