第8話 【セレス視点】首のない痕
あの男の首には、痕がなかった。
葬式の大広間で、黒い煙と一緒に「死んだはずの男」が現れたとき、誰もがその顔を見ていた。
私だけが、首を見ていた。
聖剣に討たれた魔将の首には、光の痕が残る。
焼き印のような、白い筋。それは聖剣の光が、魔将の命の根を焼き切った証だ。痕を刻まれた魔将は、例外なく三日のうちに死ぬ。
百年前、先代の勇者と戦った魔将たちは、みなそうして死んだ。
私の母も、その一人だった。
母の首に浮かんだ白い筋を、私は今でも覚えている。
三日目の朝、母は私と妹の手を握ったまま、雪が溶けるように消えていった。
だから、間違えるはずがない。
ヴァルガスの首には、痕がなかった。兜を割られたのに。聖剣の光を浴びたのに。
つまり、あの男は、討たれていない。
***
ヴァルガスという魔将を、私はずっと好きになれなかった。
強いことは認める。
五魔将の中で、純粋な武の力なら、あの男が一番だろう。
けれど、あの男は配下を道具としか見ていなかった。
毎朝千回の素振りを課し、倒れた者を蹴り起こし、使えないと分かれば前線へ送り出す。勇者が現れたと聞いたときも、手柄を独り占めするために、真っ先に廃砦へ向かった。
その男が、葬式の場で、配下のゴブリンに「九百回にしてやろう」と言ったのだという。
ギギとかいう副官が、泣きながら厨房で言いふらしていた。
――ヴァルガス様は死の淵からお戻りになって、お優しくなられた、と。
人は、死にかけたくらいで変わらない。
魔将なら、なおさらだ。
変わったのだとしたら、それは中身が変わったのだ。
***
ゼクスからの命令が届いたのは、勇者がブランシュに着いたのと同じ日の夜だった。
自室の机の上に、いつの間にか、黒い封筒が置かれていた。
封蝋には、参謀の紋。
開ける前から、指先が冷たくなった。
あの男からの手紙に、いい知らせが入っていたことは一度もない。
『祭りの夜、ブランシュの旧水路の陣を守ってください。
誰が来ても、陣に触れさせないこと。
死人が来ても、です。
あなたの妹さんは、元気にしていますよ。
――ゼクス』
封筒を逆さにすると、小さな髪飾りが一つ、机の上に落ちた。
雪の結晶をかたどった、銀の髪飾り。
リュシーが、十歳の誕生日に私から貰ったと言って、一度も外さなかったものだ。
指が、震えた。
机の上に、薄く霜が広がっていく。
リュシーが姿を消したのは、ひと月前だ。
魔王城の誰に聞いても知らないと言い、ゼクスだけが、にこやかに「心配ですね」と言った。
あのときから、分かっていた。
分かっていて、何もできなかった。
手紙には、続きがある。
二枚目の紙に、ゼクスの几帳面な字で、陣の仕組みが書き添えられている。まるで、私に読ませるために。
祭りの夜、町じゅうの灯籠に火がともったとき、陣が目を覚ます。
呼び出されるのは、岩喰いのトロルが二十体。そして、双頭のヒュドラが一体。
狙いは、聖剣を持った少年。
『勇者くんは、ここで退場していただきます。
物語というのは、本来、序盤で終わるべきだったのですよ。』
意味の分からない一文だった。
物語。序盤。あの男は、ときどき、この世界をまるで本か何かのように話す。
――死人が来ても、です。
ゼクスは、ヴァルガスが水路に来ると読んでいる。
そして、私に止めさせようとしている。
なぜ、ヴァルガスが陣を壊しに来ると思うのか。
魔王軍の魔将が、勇者を殺すための陣を。
答えは、一つしか思いつかなかった。
***
旧水路の空気は、湿っていて、ひどく生ぬるかった。
氷の魔将にとって、居心地のいい場所ではない。
それでも私は、命令どおり、祭りの三日前から水路の見回りを始めた。
そして、見回りを始めて二日目の夜。
中央の貯水槽から、かすかな足音が聞こえた。
重い足音だった。鎧を着た大男の、それでいて、まるで迷う様子のない足取り。
初めて来る場所を歩く足音ではなかった。まるで、何度も歩いた自分の家の廊下のように。
貯水槽の入り口から、そっと覗く。
陣の縁に、黒い鎧の男がしゃがみ込んでいた。
練習用の、飾り気のない鉄兜をかぶっている。灰色のマントは、いかにも傭兵の変装といった風情だ。
けれど、その背中を、私は知っていた。
男は陣の文字を、ひとつひとつ指でなぞっていた。
魔物を呼ぶ陣を、壊すでもなく喜ぶでもなく、ただ真剣に読み解いている。ときどき小さく何かを呟きながら。
私はそっと、指先に冷気を集めた。
殺すつもりはない。
――まだ。
確かめなければならないことがある。
あの男が、何者なのか。
そして、もし私の考えが正しいのなら。
あの男は、リュシーを救う手がかりになるかもしれない。
あるいは、リュシーを殺す理由に。
足元の水たまりが、白く凍りついていく。
男の吐く息が白くなったのを見届けてから、私は口を開いた。
「――こんなところで何をしているの、死人さん」




