第7話 没マップの地下水路
旧水路の入り口は、町外れの古い井戸の底にあった。
夜を待つあいだ、俺は町外れの森で、ボツの腹にもたれて座っていた。
懐の中で、何かがかたかたと震え出したのは、日が沈みきったころだった。
取り出すと、手のひらほどの巻き貝が、薄く光っている。
魔王城を発つ前に、ギギが「せめてこれだけは」と押しつけてきた、伝声貝だ。対になった貝を持つ者同士なら、遠く離れていても声を届けられる。
貝を耳に当てると、上ずった声が飛び込んできた。
『ヴァ、ヴァルガス様! ご無事でございますか! ギギでございます!』
「声が大きい」
『し、失礼いたしました!』
声が、半分くらいの大きさになった。
それでも十分にうるさい。
『定時のご報告でございます! 城は、おおむね平穏でございます。配下一同、本日も素振りを九百回、つつがなく終えました!』
「そうか」
『それと、ガルム様が、ヴァルガス様にご指摘いただいた右肩の開きを直すと申されまして、中庭の柱を相手に、朝から晩まで拳を打ち込んでおられます。柱が、もう三本折れました』
(あの獅子、真面目か)
原作でいえば三章のボスが、一章の中ボスに言われた癖を、律儀に直している。
原作のガルムの戦闘モーションが変わったら、三章の難易度まで変わってしまうかもしれない。
「……ほかには」
『はっ。参謀殿の工房に、ここ数日、人間の魔術師らしき者が出入りしております。フードを目深にかぶっておりまして、顔までは分かりませぬが』
ゼクスに雇われた、陣の仕上げ役だろう。
予想どおりだ。
『それと、これは確かな話ではないのですが』
ギギの声が、少しだけ小さくなった。
『セレス様が、ここ二、三日、お城を空けておられます。ご自分のお部屋にも、氷の間にも、どこにもいらっしゃらなくて。侍女の雪女たちも、行き先を知らぬと申しておりまして』
――セレスが、城にいない。
葬式の大広間で、俺の首元をじっと見ていた青い目を思い出した。
嫌な予感しかしない。
「分かった。何か変わったことがあれば、また知らせろ」
『はっ! ……あの、ヴァルガス様』
「なんだ」
『どうか、ご無事で。……素振りを、九百回に減らしてくださったお方に、何かあったら、ギギは、その……』
語尾が、もごもごと消えていった。
「九百回が八百回になるまでは、死なん」
『はっ……! はいっ! お待ちしております!』
ぷつり、と貝の光が消えた。
ボツが、のっぺりした尻尾で、俺の背中を軽く叩く。
たぶん、励ましているつもりなのだろう。
「……行ってくる。ここで待ってろ」
夜の闇にまぎれて、俺は井戸に降りた。
縄梯子はない。鎧の重さに任せて飛び降りると、三十歩ほど落ちたところで、足が石の床を打った。
暗い。だが、目は慣れている。
ヴァルガスの体は、闇の中でもある程度ものが見えるように作られていた。原作では一度も使われなかった設定だが、設定資料にはちゃんと書いてあった。
(さて。没マップの答え合わせといこか)
ここから先の構造は、頭に入っている。
開発中に、この水路のテストを担当したのは俺だ。処理落ちの原因を探して、三週間、毎日ここを歩き回った。
水路は、町の地下を網の目のように走っている。
中央には巨大な円形の貯水槽があり、そこから八本の通路が放射状に伸びる。北の三本目の通路は途中で崩れていて、東の通路には隠し部屋が一つ。
歩き出してすぐに、確信した。
この場所は、あのときのデータのままだ。
壁の苔の位置。天井から垂れる水滴の間隔。
崩れた北の三本目の通路の、瓦礫の積み方まで、記憶と同じだった。
(……そうか。没になったものも、この世界にはちゃんと残ってるんやな)
ボツと同じだ。
消されたはずのデータが、ここでは消えずに息をしている。
壁の松明受けには、新しい煤がついていた。
最近、誰かがここに出入りしている。それも、何度も。
中央の貯水槽に近づくにつれて、空気が変わった。
湿った石の匂いに、焦げたような、鉄のような臭いが混じり始める。
最後の角を曲がった瞬間、俺は足を止めた。
「……でかいな」
円形の貯水槽は、とうに干上がっていた。
その乾いた底一面に、巨大な陣が描かれている。
赤黒い線で描かれた、幾重もの円。円と円の間を埋める、細かな文字列。
ところどころに、灰色の石が埋め込まれていた。魔力を溜め込むための触媒だ。
そして陣の中心には、トロルの首にあったものと同じ紋様が、ひときわ大きく刻まれていた。
開発中の、仮のデザイン。
俺は陣の縁にしゃがみ込んで、文字列を一つずつ目で追った。
(召喚の対象……岩喰いのトロル、数は二十)
喉が鳴った。
二十体。廃砦の帰り道に出た一体だけで、騎士団十人がかりの魔物だ。
文字列は、まだ続いている。
陣の一番外側の円に、ほかとは違う太く荒い字で、もう一つの名前が書き込まれていた。
(双頭の、ヒュドラ)
原作では、第三章の終盤に出てくる大型の魔物だ。
レベル三十前後のパーティーで、ようやく倒せる相手。今のリオは、どう見積もってもレベル三か四だ。
陣の起動条件も、読み取れた。
町じゅうの灯籠に火がともり、人々の祈りの魔力が空に満ちたとき。
――灯籠祭りの夜。
ゼクスは、祭りの灯りそのものを、召喚の燃料にするつもりなのだ。
町の人々が、勇者の旅立ちを祝って灯籠を上げる。その祈りが、そのまま魔物を呼ぶ。
(悪趣味にもほどがある)
陣を、今ここで壊すか。
大剣で中心の紋様を叩き割れば、それで終わる……かどうかは分からない。
召喚陣の構造には、壊されたときの仕掛けが組み込まれていることがある。下手に壊せば、溜め込まれた魔力が一気に暴れ出して、町の地下ごと吹き飛ぶかもしれない。
調べよう。
陣の構造を、端から端まで。テストと同じだ。どこを押せば、何が起きるのか。
俺は陣の外周に沿って、ゆっくりと歩き始めた。
触媒の石の配置。文字列の継ぎ目。線の太さの違い。
三分の一ほど回ったところで、ふと気づいた。
――息が、白い。
さっきまで、水路の中はじめじめと蒸し暑かったはずだ。
なのに今、吐く息が白く濁っている。足元の水たまりの縁に、薄い氷が張り始めていた。
背中に、冷たいものが触れた。
刃ではない。もっと静かで、もっと冷たい何か。
「――こんなところで何をしているの、死人さん」
氷のように澄んだ声だった。
振り向かなくても、分かった。
この冷気を纏える魔将は、五魔将に一人しかいない。
ゆっくりと、振り返る。
貯水槽の入り口に、銀の髪の女が立っていた。
青白い肌に、氷の結晶を編んだような薄い外套。指先から、白い霧が細くたなびいている。
五魔将の二番手、氷のセレス。
彼女の青い目は、俺の顔ではなく、首元を見ていた。




