第10話 一回だけの稽古
祭りの前日、町は朝から浮き足立っていた。
広場の櫓には、色とりどりの灯籠が鈴なりに吊るされている。
川べりでは、子供たちが明日流す小さな灯籠を並べて、どれが一番遠くまで流れるかを言い合っていた。
俺は川沿いの土手を歩いていた。
練習用の鉄兜に、灰色のマント。今日もどう見ても、兜だけ買い忘れた傭兵だ。
明日の夜、俺は旧水路に降りる。
陣が目を覚ます瞬間に、中心の紋様を内側から断ち切る。そのためには、セレスと戦わなければならない。
戦えば、勝てる。たぶん。
でも、セレスを傷つけるわけにはいかなかった。
彼女は、二章で勇者と戦う魔将だ。第二の封印は、彼女が勇者に負けることで解ける。
ここで俺が彼女を倒してしまったら、封印の仕組みがどうなるのか、まったく分からない。
それに――。
(ごめんね、リュシー、か)
原作で、彼女が最期に呟いた名前。
あの髪飾りの持ち主なのだろう。
考え込みながら歩いていると、土手の下から、ぶんぶんと風を切る音が聞こえてきた。
見下ろすと、河原で一人の少年が剣を振っていた。
金髪に、革の胸当て。白い剣を両手で握って、真剣な顔で素振りを繰り返している。
(……リオ)
仲間の姿は見えない。ノエルとボルドは、ギルドの依頼で出ているのかもしれない。
リオの素振りは、廃砦のときより、ずいぶんましになっていた。
重心は前。腰は引けていない。
ただ、振るたびに、剣先が右に流れる。
振り下ろす瞬間に、右の肘が外に開いているからだ。
(惜しい。あと一つ直したら、化けるんやけどな)
声をかけるべきではない。
昨日、弟子は取らないと言ったばかりだ。
俺は土手の上を、そのまま通り過ぎようとした。
「――あっ!」
声に、足が止まった。
リオが、剣を下ろしてこちらを見上げている。
「昨日の……!」
(見つかった)
リオは剣を鞘に収めると、土手を駆け上がってきた。
息を弾ませながら、俺の前で頭を下げる。
「こんにちは! 昨日は、変なことをお願いしてすみませんでした」
「……ああ」
「あの、弟子にしてくださいとは、もう言いません。断られたので」
リオは顔を上げて、俺を見た。
「でも、一回だけ。一回だけでいいので、僕の素振りを見てもらえませんか」
断れ。
頭では、そう分かっていた。
でも、さっきの素振りが、目に焼きついていた。
あと一つだけ直せば、化ける。それが分かっていて、黙って通り過ぎるのは――。
(……テストで見つけたバグを、報告せずに帰るのと同じや)
デバッガーとしての性分が、それを許さなかった。
「……一回だけだ」
「本当ですか!?」
「振ってみろ」
リオは目を輝かせて、河原に駆け下りた。
俺もその後ろから、ゆっくりと土手を降りる。
リオが剣を抜き、構えた。
深呼吸を一つしてから、振り下ろす。
ぶん、と風が鳴った。
剣先が、やはり右に流れる。
「右の肘だ」
「え?」
「振り下ろす瞬間に、右の肘が外に開く。だから剣が右に流れる」
リオは、自分の右肘を見下ろした。
「肘を……閉じる、ってことですか?」
「閉じようとするな。脇に、紙を一枚挟んでいると思え。それを落とさないように振る」
リオは、もう一度構えた。
脇を軽く締めて、慎重に、振り下ろす。
ぶん。
剣先が、まっすぐに落ちた。
「……あ」
リオが、自分の剣を見つめて固まった。
もう一度振る。まっすぐだ。もう一度。まっすぐ。
「まっすぐ……振れた……」
リオの肩が、小さく震え始めた。
四回目を振ろうとして、手が止まる。
「三日です」
「……」
「騎士様に習ったのは、三日だけでした。筋がないって言われて。それから毎日、一人で振ってたけど、どうしても右に流れて……なんでなのか、誰も教えてくれなくて」
リオは、袖で目元をごしごしと拭った。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
(……やめてくれ。そういうのに弱いんや、俺は)
テストの仕事は、誰にも感謝されない仕事だった。
バグを見つけても、直すのは開発者で、褒められるのも開発者だ。報告書を出して、次のバグを探す。それだけの毎日だった。
こんなふうに、まっすぐ礼を言われたのは、いつ以来だろう。
「……礼を言うのは早い。百回振れ。今の形を、体に覚えさせろ」
「はいっ!」
リオは剣を握り直して、振り始めた。
一、二、三。数えながら、一回ずつ、確かめるように。
十回を過ぎたあたりで、リオがふと、手を止めずに言った。
「あの」
「なんだ」
「あなたの剣、知ってる気がするんです」
心臓が、一つ跳ねた。
「教え方が……前に、僕に剣を教えてくれた人に、似てて」
「……騎士か」
「いいえ」
リオは、振りながら首を振った。
「その人は、怒鳴りながら教えてくれたんです。重心が踵に乗ってるとか、剣は足で振るものだとか。……敵だったんですけど」
十五。十六。
リオの剣は、まっすぐに落ち続けている。
「変ですよね。敵なのに、先生みたいだったなんて」
俺は、何も答えなかった。
答えられなかった。
練習用の鉄兜は、こういうとき便利だ。
中の顔が、どんな表情をしていても、外からは見えない。
***
百回を振り終えたリオに背を向けて、俺は土手を上がった。
「また、会えますか」
背中に、声が飛んできた。
振り返らずに、片手だけ上げる。
会えるかどうかは、明日の夜しだいだ。
日が傾き始めていた。土手の上から、町外れのほうを見る。古い井戸のある、旧水路の入り口だ。
黒いフードをかぶった人影が、三つ、四つ。
あたりをうかがいながら、井戸の中へ降りていくところだった。
ゼクスに雇われた、人間の魔術師たちだろう。
陣の最後の仕上げに来たのだ。
明日の夜まで、あと一日。




