第82話 【ゼクス視点】最終稿
丘の上の道場を訪ねたのは、秋の終わりの午後だった。
小脇に一冊の本を抱えていた。
この三年、書き続けてきた本だ。
書く合間に、毎年同じ道を回ってきた。
ブランシュ、トウヒの村、ザハル、マリネラ。私が壊したものを直す手伝いをするために。石を運び、網を繕い、言われたことを黙ってした。
マリネラの漁師たちは、三年たっても私と口をきいてくれない。
町に波を向けた男だと、皆が知っている。繕った網を受け取る手は、毎年私の指に触れないように動く。
リュシーには、毎年本を一冊ずつ届けている。返事は、まだ来ない。
それでいい、と思っている。許してもらうために回っているのではないのだから。
丘を登る途中で、道端の畑から見覚えのある顔が手を振ってきた。
「――ゼクス殿!」
獅子の顔の、大きな獣人だった。
麦わら帽子をかぶって、鍬を肩に担いでいる。
「ガルム殿。お久しぶりです」
「道場へ行くのか」
「ええ。届け物がありまして」
ガルムの隣で、黒髪の小柄な女性が畑の土を掘り返していた。
ルミエラだ。
三年前、魔王だった人。今は、ガルムの畑を手伝いながらこの村の外れで暮らしている。
黒い髪は、肩のあたりで短く切りそろえられていた。
白かった頬は日に焼けて、ほんのりと小麦色になっている。
そして――三年前よりも、ほんの少しだけ年を取っていた。
呪いが解けて、時間がもう一度動き始めたのだ。
百年分ではなく、一年に一年ずつ。人間と、同じ速さで。
「ゼクス」
ルミエラが、土のついた手で額の汗を拭った。
「その本は」
「……書き上がりました」
ルミエラは本に目を落とし、静かに微笑んだ。
「そうか。……読ませてもらえるか」
「もちろんです。ルミエラ様の分も、持ってきました」
***
道場の縁側に、あの男が座っていた。
洗いざらしの麻の上着に、古い革のズボン。
膝の上に木剣を載せて、丘の下の畑をぼんやりと眺めている。
――黒鎧の魔将、ヴァルガス。
いや、もうそう呼ぶ人はいない。村の子供たちは、ただ「先生」と呼んでいる。
「……来たんか」
「来ました」
縁側の端に、腰を下ろした。
道場の中では、小柄なゴブリンが子供たちに字を教えていた。
下手くそな字の手本を、子供たちが真剣な顔で写している。
「話の、続きをしに来たんか」
「それもあります」
この三年、私は月に一度、この道場を訪ねてきた。
訪ねるたびに、この男は話してくれた。
前の世界で、この世界の物語のどこが壊れていたのか。
報告番号、一の一。チュートリアルボスの撃破演出において、煙の裏で転移処理が残存。
報告番号、二の四十八。二章の雪原マップ、北側三本目の柱の根元にひび割れのテクスチャ欠け。
報告番号、四の二百十七。四章ボス「海魔将」の固有能力「改稿」について――。
何百という報告を、一つずつ。
私が、読まずに捨ててきた報告を。
――この男は、全部、覚えていた。
「今日は、届け物があります」
小脇の本を縁側の上に置く。
***
革表紙の、分厚い本だった。
表紙には、私の手で題名を書き入れてある。
この世界の文字で。
男は本を見下ろして、しばらく黙っていた。
「……これは」
「この世界の、本当の物語です」
私は、表紙を指でなぞる。
「最初の版でも、発売された版でもない。……この世界で、実際に起きたことを、そのまま書きました。廃砦の日から、魔王城の玉座の間まで」
男が、本を手に取った。
表紙の題名を、声に出して読む。
「――『負け役の中ボス』」
男は、眉をひそめた。
「……主役、俺か」
「ええ」
「勇者やなくて?」
「勇者くんの話でもありますよ。でも、この物語は、あなたから始まったので」
男は何とも言えない顔で、本の表紙を見つめている。
「売れへんで、こんなん」
「売るつもりはありません」
私は、少し笑った。
「この世界には、印刷所も、出版社も、宣伝担当もいませんから。……書きたいものを、書きたいように書いただけです。三十部だけ、手で写しました。道場と、ガルム殿と、ルミエラ様と、セレス殿と、勇者くんたちの分」
***
男は、本を開いた。
最初の頁を黙って読み始める。
――よくぞ来た、勇者よ。我こそは魔王軍五魔将が一人、黒鎧のヴァルガス……
男の口元が、ゆがんだ。
「……あ、待って。これ、俺の台詞か」
「二行目も、そう書いてあります」
「書くなや」
男は、頁をめくった。
一枚、また一枚。
ときどき、眉をひそめたり、口元を押さえたりしながら。
読むのが、思っていたよりもずっと速い。前の世界で何百枚もの報告書を読んできた人の、速さだった。
やがて、男がある頁で手を止めた。
「……ここ」
指で、ある一行をとんとんと叩く。
「ブランシュの夜の、ヒュドラのとこ。俺が叫んだ台詞、『見よ!』の前に、『――』が入っとる。俺、そんな溜めてへん」
「溜めていましたよ。私は、最上段から見ていました」
「溜めてへんて」
「では、報告してください」
男が、顔を上げた。
私は、懐から白紙の帳面を一冊取り出した。
この世界の、ただの白い紙の帳面を。
「報告番号、一の一から。……今度は、全部、読みますから」
男は、しばらく私の顔を見ていた。
それから、ふっと笑う。
「……長くなるで」
「構いません」
私は羽ペンを取り出して、帳面の最初の頁を開いた。
「時間は、たっぷりありますから」
***
丘の下の道を、誰かが登ってくるのが見えた。
まだ、遠い。
でも、その足取りには、見覚えがあった。
足で土を固めてから、踏み出す。
重心が、つま先の付け根に乗っている。剣を抜いていないのに、いつでも踏み込めるように。
男が、本から顔を上げた。
丘の下の道を見下ろして、その目がほんの少しだけ見開かれた。
私は、羽ペンを置く。
――報告は、また今度にしましょう。
この物語の、本当の最後の頁は、たぶん、今から書かれるのだから。




