第83話 先生
丘の下の道を登ってきたのは、背の高い青年だった。
くすんだ金髪を、首の後ろで短く結んでいる。
旅の埃にまみれた外套の下に、使い込まれた革の胸当て。腰には、鞘に収まった白い剣。
三年前より、頭一つ分背が伸びていた。
肩幅も、ずいぶん広くなった。顔つきからは、少年らしさがほとんど抜けている。
――それでも、立ち方は、同じだった。
丘の上の広場の入口で、青年は足を止めた。
道場の縁側に座っている俺を見て、目を細める。
縁側の端で、ゼクスが静かに本を閉じた。
道場の中で、子供たちに字を教えていたギギの手が止まる。
青年が、口を開いた。
「――お久しぶりです」
低くなった声だった。三年前、廃砦で裏返っていた声とは、まるで違う。
「……リオ」
***
リオは、三年間、旅を続けていた。
魔王がいなくなった世界には、それでも困っている人がたくさんいた。
魔物に怯える村。日照りに苦しむ町。魔王軍がなくなって、行き場をなくした魔物たち。
聖剣の勇者は、そういう場所を一つずつ訪ねて歩いた。
ノエルと、ボルドと、ミレイユと一緒に。
ときどき、伝声貝でミレイユから便りが届いた。
――リオが、また剣を教えてたわ。村の子供たちに。重心が踵に乗ってる、って言いながら。
――ノエルが、リオと一緒に、リオの故郷の村長さんに、ご挨拶に行ったわ。何の挨拶かは、ご想像にお任せするけど。ボルドは、なぜか一番泣いていたそうよ。
――ノエルが、あなたに伝えてって。『先生。リオを泣かせたら許さないって言ったの、まだ有効だからね。……それと、孤児院の子たちにも、剣を教えに来て。知りすぎてる大人なら、先生くらいが、ちょうどいいから』
――リオが、十八になったわ。そろそろ、そっちへ行くって。
***
「一人か」
「はい。……みんなは、村で、待ってます」
リオは丘の下の村のほうを振り返り、また俺のほうへ向き直った。
「今日は、一人で、来たかったので」
リオは、外套の内側に手を入れる。
取り出したのは、黒い金属のかけらだった。
指の一本分ほどの大きさの。縁が、すっかり丸くなった。
――廃砦の帰り道で拾ったもの。
筆頭の間で、返して、返されたもの。
「三年間、ずっと、持ってました」
リオは、かけらを手のひらの上に載せて見下ろした。
「旅の途中で、怖くなったときとか、迷ったときとか、これを握って。……先生だったら、どうするかなって、考えてました」
リオは、顔を上げた。
まっすぐな目。三年前と何も変わらない目だった。
「今日は、先生に、お願いがあって来ました」
***
リオは、腰の白い剣を外した。
鞘ごと、道場の縁側にそっと立てかける。
聖剣は、もう光っていない。五つの封印をすべて解き、最後の一行を断ち切ったあと静かに眠りについたのだと、ミレイユの便りに書いてあった。
代わりにリオは、広場の隅の木剣の束から一本を抜き取った。
子供たちが素振りに使う木剣だ。
リオの今の背丈には、短い。
リオはそれを両手で握って、広場の真ん中に立った。
足で、土を固める。重心を、前に。脇を、締めて。
――廃砦の日に、俺が怒鳴って教えた構え。
「先生」
リオが、言った。
「一本、取りに来ました」
***
道場の中で、子供たちがざわめき始める。
「あの人、だれ?」
「せんせいに、しょうぶ、いどむの?」
「せんせいより、せがたかいよ」
ギギが、帳面で子供たちの頭をぺしりと叩いて回っていた。
「し、静かに……! あのお方は……あのお方は……!」
ギギの声が、震えている。
丸眼鏡の奥の目が、もううるんでいる。
縁側の端で、ゼクスが閉じた本を膝の上でそっと押さえていた。
俺は膝の上の木剣を握って、ゆっくりと立ち上がった。
――膝が、きしんだ。
三年前の五魔将筆頭の体ではない。黒鎧も魔王の魔力も、もうない。ただの、剣の振り方を知っているだけの大柄な男だ。
それでも、木剣は持ち上がった。
縁側を降りて、広場の真ん中へ歩いていく。
リオの三歩手前で足を止めて、木剣を構える。
リオが、少しだけ、笑った。
「……本気で、お願いします」
「当たり前や」
俺も、少しだけ、笑った。
「手加減したら、お前、また怒るやろ」
***
丘の上を、秋の風が吹き抜けていく。
道場の子供たちが縁側に鈴なりになって、息を呑んでいる。
丘の下の畑から、ガルムとルミエラが鍬を置いてこちらを見上げていた。
丘の反対側の道を、銀色の髪の二人が急ぎ足で登ってくるのが見えた。
リュシーが姉の手を引っぱって走っている。
空の高いところで、ボツが一度だけ高く鳴いた。
リオが、床を――土を蹴った。
まっすぐに。一拍だけ、遅らせて。
――速い。
三年前の、筆頭の間のときよりも。
この三年、この子は一日も欠かさず剣を振り続けてきたのだ。
木剣と、木剣が、ぶつかった。
乾いた音が、丘の上に響く。
受けた。受けて、押し返そうとして――押し返せない。
(……強なったな)
採点しようとして、やめた。
――十点満点の、その先や。
***
三合目で、俺の木剣が手から弾き飛ばされた。
くるくると回りながら秋の空に舞い上がって、広場の隅の草むらにぽとりと落ちる。
リオの木剣の切っ先が、俺の額の前でぴたりと止まっていた。
額の、ちょうど真ん中。
三年前、筆頭の兜の、銀の紋章があった場所。三年半前、廃砦で、黒い兜が割れた場所。
――パキン、とは、鳴らなかった。
木剣だから。兜は、もうかぶっていないから。
それでも、その音が、聞こえた気がした。
道場の縁側で、子供たちがわっと歓声を上げた。
ギギが帳面を放り出して、両手で顔を覆っている。
俺は、額の前で止まった木剣を見上げた。
「……負けた」
声が、かすれる。
悔しかった。
三年前と、同じくらい。いや、それ以上に。
そして、同じくらい――。
「よし。……負けた」
リオが、木剣を下ろした。
それから、俺の前で深く頭を下げた。
ザハルの闘技場で、決闘の相手のガルムに頭を下げたときと同じように。
顔を上げたリオは、笑っていた。
泣きそうな顔で。
でも、確かに、笑っていた。
――廃砦で、黒い煙の向こうに見た、あの日の顔と、同じ。
リオは、手のひらの中の黒い金属のかけらを、ぎゅっと握りしめた。
そして、三年分の、いや、たぶん、出会ってから全部の思いを込めて、まっすぐに、俺を呼んだ。
「――ありがとうございました。……先生」




