第81話 三年後の道場
「――七百九十八! 七百九十九! はっぴゃく!」
朝の空に、子供たちの声が響いていた。
村外れの丘の上の、小さな道場。
板張りの床に、柱が四本、屋根は藁葺き。壁の半分は開け放たれていて、丘の下の畑とその向こうの森がよく見える。
道場の前の広場に、子供たちが二十人ほど並んでいた。
村の子供たちだ。
人間の子もいれば、獣人の子もいる。耳の尖ったゴブリンの子も、角の生えた小鬼の子も。みんな木剣を握って、汗だくになって振っている。
「はっぴゃくいち!」
数を数えているのは、道場の縁側に立った小柄なゴブリンだった。
丸眼鏡を鼻の上にちょこんと乗せて、帳面を片手に持っている。
ギギだ。
三年前とほとんど変わらない。
変わったのは、腰に下げた帳面が三冊に増えたことくらいだ。
***
俺は、子供たちの列のいちばん前に立っていた。
黒鎧は、もう着ていない。
洗いざらしの麻の上着に、古い革のズボン。手に握っているのは、子供たちと同じただの木剣だ。
「――重心が、踵に乗っとるで」
列の端の小さな獣人の子に声をかける。
狐の耳をした、六つくらいの女の子だ。
「つま先の、付け根や。そこに、体重を乗せる」
「つまさきの……つけね……」
「そう。剣は、足で振るもんや」
女の子はむっとした顔で、足元を見下ろした。
体を前に傾けて、木剣を振る。
ぶん、と小さな風が鳴った。
「……あ」
女の子が、目を丸くする。
「いまの、いい音した」
「ええ音やった。十点満点で、六点」
「ろくてん……」
女の子は不満そうに、それでも嬉しそうに、もう一度木剣を構えた。
***
「――きゅうひゃく!」
ギギの声が、ひときわ高く響いた。
子供たちが一斉に木剣を下ろして、その場にへたり込んだ。
汗だくの顔で空を見上げて、大きく息を吐いている。
「つかれたー!」
「先生、なんで千回じゃなくて、九百回なの?」
獅子の顔の獣人の子が、寝転がったまま聞いてきた。
「千回やと、腕が自分のもんやなくなるからや」
「なにそれー」
「昔、そう言うたやつがおってな」
縁側で、ギギが帳面で顔を半分隠す。
「先生、黒閃、見せて!」
獅子の顔の子が跳ね起きた。ほかの子供たちも、わっと顔を上げる。
木剣を、構える。
刃の軌跡を、細く、薄く――。
ひゅん、と風が鳴っただけだった。
黒い線は、どこにも走らない。
「……今日は、調子が悪い」
「えー! きのうも、そう言ったー!」
笑ってごまかして、木剣を下ろす。
右手を、握って、開いた。もう一度、握って、開いた。
***
素振りが終わると、子供たちは道場の縁側に集まった。
縁側には、小さな机が並べてある。
机の上には、木の板と、炭のかけら。
「では、本日の、お字の練習でございます」
ギギが帳面を抱えて、子供たちの前に立った。
「本日は、『あ』から『お』まで。ギギのお手本を、よく見て、書いてくださいませ」
ギギが、大きな板に炭で字を書いていく。
――下手くそな字だった。
左右の高さが、ばらばらで。
それでも子供たちは、真剣な顔でそれを写していた。
――あした、たすけに、きます。
三年前、白霧の神殿の地下で氷の中の少女に向けて、ギギが帳面に書いた字。
その字が今、二十人の子供たちに写されている。
「ギギせんせい、『あ』の、このくるってところ、どうやって書くの?」
「そ、それは、ですね……! ここを、こう、くるっと……!」
ギギが子供の手を取って、一緒に炭を動かしている。
丸眼鏡が、ふんふんと荒い鼻息で、白く曇っていた。
――ギギせんせい、と呼ばれるたびに、いつもそうなる。
***
昼前、丘の下の道を二つの人影が登ってきた。
銀色の髪の、背の高い女と。
同じ銀色の髪を、左右の高さが少しだけ違う結び目で結った、十二歳くらいの少女。
「――お昼、持ってきたわよ」
セレスが、籠を掲げてみせた。
村の、丘の反対側の小さな家。
セレスとリュシーは、三年前からそこで暮らしている。北の森ではなく、この村で。
冬になると、村の周りに薄い氷の壁が立つ。
魔物が寄りつかないように。村の子供たちは、それを「氷の魔女の垣根」と呼んでいる。
「あったかい人!」
リュシーが籠を姉に預けて、俺のところへ駆けてきた。
三年たっても、リュシーは十二歳の体のままだった。氷の一族の時間は、雪が降り積もるようにゆっくりとしか進まない。
「今日の素振り、何回?」
「九百回」
「わたしも、明日から、やる」
「お前は、氷の練習があるやろ」
「両方、やるの」
リュシーは、胸を張った。
セレスが籠を縁側に置きながら、小さく笑う。
「この子、最近、何でもあなたの真似をするのよ」
「……そうか」
「この前は、関西弁を覚えたいって言っていたわ」
「やめとけ」
リュシーが、ぷうっと頬を膨らませる。
「なんでや」
「……もう、覚えとるやないか」
セレスが、声を出して笑った。
***
縁側で、四人で、昼を食べた。
セレスの作った冷たい麦の団子と、干した魚と、畑で採れた瓜。
子供たちはそれぞれの家に帰っていった。午後は、また素振りと字の練習がある。
丘の上を、風が吹き抜けていく。
空の高いところを、黒い大きな影が旋回していた。
ボツだ。
三年前、金色の光の中で尻尾の先まで作り上げられた飛竜。今は、この丘の裏の森に棲んで毎朝空の散歩をしている。
ギギが空を見上げて、目を細めた。
「ボツ殿、今日も、お元気そうで」
「……お前、最近、ボツに乗っとるらしいな」
「は、はい。週に一度、ボツ殿のほうから、乗れとおっしゃるので……」
ギギは照れたように、尖った耳の先を掻いた。
「まだ、少し、怖いのでございますが」
セレスが、俺の隣で空を見上げていた。
「……平和ね」
「ああ」
「三年前には、考えられなかったわ。あなたと、こうして、丘の上で、お昼を食べているなんて」
セレスは、冷たい麦の団子を一つ俺の手に載せる。
「あなたが、廃砦で、上手に負けてくれたおかげね」
「……あれは、上手やなかった。必死やった」
「知ってるわ」
セレスは、小さく笑った。
空の上で、ボツが高く鳴いた。
***
夕方、最後の子供が丘を下りていくのを、縁側から見送る。
ギギはリュシーを連れて、裏の森へボツの好物の干し魚を届けに行った。
道場の縁側には、俺とセレスだけが残る。
西の空が、橙色に染まっていた。
丘の下の畑で、ガルムとルミエラが並んで鍬を担いで、家へ帰っていくのが見える。
「……ねえ」
セレスが、縁側の板の上で膝を抱えた。
「ミレイユから、聞いたわ。筆頭の間で、リオに、全部話したんですってね」
「……あいつ、喋りすぎや」
「聞いたのは、三年前よ。三年、黙っていたの。私にしては、我慢したほうでしょう」
セレスは、横目でこちらを見た。
「あの子には、答えたのね。三回目で」
「……四回目や」
「どっちでもいいわ」
セレスは、唇の端を上げる。
それから、夕日のほうへ目を戻した。
「私は、まだ、一度も聞いていないのだけど」
***
何を、とは、聞かなかった。
白霧の神殿のあと、氷の地下室で黙って隣に座っていた夜。
マリネラの桟橋で、何も言わずに籠手の上に重ねられた手。魔王城の宴の夜も、同じだった。
俺はいつも、言葉が見つからないまま隣にいるだけだった。
この人は、それでいいという顔をして、三年も待っていてくれたのだ。
(……あかんな、これは)
筆頭の間で、分かったはずだ。
答えは、最初からここにある。言葉にするのが怖いだけだと。
自分の手を、見下ろした。
籠手は、もうない。日に焼けた、ただの男の手だ。
その手を、セレスの手の上に重ねた。
冷たかった。
籠手越しには一度も分からなかった冷たさが、そのまま手のひらに伝わってくる。
「……冷たいでしょう」
セレスが小さく言って、手を引こうとした。
離さなかった。
「冷たいな」
「だから――」
「俺は、この冷たいのが、ええ」
セレスの手が、止まる。
息を吸った。
筆頭の間で、リオの前で、言葉にしたときと同じように。
「お前が、隣におってくれて、よかった。氷の地下室でも、桟橋でも、魔王城でも。……これからも、隣におってほしい」
夕日が、丘の向こうに半分沈んでいた。
「好きや、セレス」
言ってから、自分の台詞を採点しかけて、やめた。
何点でも、もう言ってしまったのだから。
***
セレスは、しばらく何も言わなかった。
夕日を見つめたまま、銀色の睫毛が何度か瞬く。
「……遅いわ」
ようやく、それだけ言った。
声が、少しだけ揺れていた。
「三年よ。リオのときは、四回目で済んだのに」
「すまん」
「謝らなくていいわ」
セレスが、こちらを向く。
氷の一族の色の薄い頬が、夕日のせいだけではなく、赤くなっていた。
「私も、よ。……廃砦で、あなたが、首に痕もないまま上手に負けて帰ってきた、あの日から。ずっと」
セレスの指が、俺の指のあいだにそっと入り込んでくる。
冷たい指を握り返すと、俺の手の温度が少しずつ移っていくのが分かった。
裏の森のほうから、ボツの鳴き声とリュシーのはしゃぐ声と、ギギの悲鳴が聞こえてくる。
「……リュシーには、明日、言うわ」
「ギギには」
「もう知っていると思う。あの子、帳面に、なんでも書いているもの」
セレスが、声を出して笑った。
俺も、つられて笑う。
丘の上に、最初の星が一つ灯った。




