第80話 世界の結末
ボツが、玉座の間の割れた窓から舞い降りた。
床は、元の黒い石に戻っていた。
壁にも柱にも、灰色はどこにも残っていない。窓の外の北の空は曇っていたけれど、ちゃんと雲の色をしていた。
ボツが床に着くより先に、ノエルが駆け寄ってきた。
「リオ!」
リオが、ボツの背中から滑り降りる。
ノエルが、その体を正面から抱きしめた。
「ばか! ばか! 灰色の渦に飛び込むなんて! 本当に、本当に……!」
「ごめん、ノエル」
「謝らなくていいから、帰ってきたから、もういいから……!」
ノエルは、リオの背中を拳で何度も叩いていた。叩くたびに、声が裏返る。
ボルドがその後ろで、二人の頭を大きな手でまとめて撫でる。
ミレイユは杖にもたれて、大きく息を吐いていた。
三つ編みの先が焦げている。炎を放ち続けて、灰色を押し返していたのだろう。
「……合格よ、勇者くん」
ミレイユはそれだけ言って、床に座り込んだ。
***
ボツの首の付け根から、ギギがころりと転がり落ちた。
床の上で、四つん這いのままがたがたと震えている。
丸眼鏡は、鼻の先までずり落ちていた。
「い、生きております……! ギギは、まだ、生きております……!」
雪の国で、初めてボツに乗せられたときと、同じ台詞だった。
俺はボツの背中から降りて、ギギの横にしゃがみ込んだ。
魔王の魔力は、もう一滴も残っていない。膝が震えて、ギギと同じくらい立っているのがやっとだった。
「ギギ」
「は、はいっ……!」
「お前が、ボツを飛ばした」
「い、いえ、ボツ殿が、飛んでくださったので……!」
「お前が、しがみついとったから、ボツは真ん中まで飛べた」
ギギの丸眼鏡を、指で押し上げてやる。
「ようやった。……十点満点で、十点や」
ギギが、ぴたりと震えを止めた。
懐から帳面を引っぱり出して、震える手で何かを書きつけ始める。
「き、記録しておきませんと……! 十点……ギギ、十点……!」
字が斜めに傾いて、帳面の端からはみ出していた。
***
玉座の段の上で、ガルムが小さな体を抱えている。
魔王ノクス――いや、ルミエラは、ガルムの腕の中で自分の両手を見下ろしていた。
「……軽い」
ルミエラは、もう一度、自分の両手を見た。
「胸の奥が、軽い。百年、ずっと、重かったのに」
ルミエラの顔色が、変わっている。
透けるように白かった頬に、ほんのりと血の色が差している。
――人間の、顔色だ。
「呪いが、消えたのですね」
ガルムが、低い声で言った。
「はい……たぶん」
ルミエラは、自分の胸に手を当てる。
「魔王の力も、消えた。……我は、もう、魔王ではない」
ルミエラは、ガルムを見上げた。
「ガルム。我は、これから、どうすればよい」
ガルムは少し考えてから、獅子の顔をほころばせた。
「まずは、朝の素振りから、始めましょう。師も、負けたあとは、いつもそうしていました」
「……千回か」
「九百回で、結構です」
ルミエラが、目を瞬く。
それから、百年ぶりに、声を出して笑った。
***
セレスが、ルミエラの前に膝をついた。
「――ルミエラ様」
ルミエラが、身を固くする。
「北の森で、私の妹が待っています。母の顔を、ほとんど覚えていない子です」
セレスは、静かに言った。
「いつか、母の話を、聞かせてやってください。……あなたの知っている、最後の母の話を」
ルミエラは、しばらくセレスを見つめていた。
小さく、うなずく。
「……ああ。必ず」
***
玉座の間の入口の柱に、ゼクスがもたれていた。
手に、セレスの伝声貝を握ったまま。
目を閉じて、何かを噛みしめるようにじっとしていた。
俺はふらつく足で、ゼクスの前まで歩いていった。
「……書けたな」
ゼクスが、目を開ける。
「ええ。……書けました。勇者くんが、言ってくれたので」
ゼクスは、手の中の伝声貝を見下ろした。
「三年かけて、書けなかった一行です。この世界に来てからも、ずっと。……あなたたちが、目の前で、その場面を見せてくれなかったら、一生、書けなかったと思います」
ゼクスは、伝声貝を俺に差し出す。
「お返しします。……セレス殿に」
「自分で返せ」
「……そうですね」
ゼクスは、ふっと息を漏らして笑った。
疲れた、どこにでもいる男の笑み。でも今は、その笑みの中に何かが戻ってきているように見えた。
「デバッガーくん」
「なんだ」
「あの夜、あなたの報告書を、読まなくて、すみませんでした」
ゼクスは、深く頭を下げる。
「これから、全部、読みます。……この世界に、まだ残っているなら」
――報告書は、もうどこにもない。
前の世界の、会社のくず籠の中だ。
「もう、ない」
俺は、首を横に振った。
「……代わりに、今度、話したる。どこが壊れとったか。全部」
ゼクスが、目を瞬いた。
「長くなるで」
「構いません」
ゼクスは、顔を上げる。
「時間は、たっぷりありますから」
***
これは、ずっとあとで、リオから聞いた話だ。
リオは、村の祠で自分の肩に手を置いた王都の神官に、手紙を書いた。マリネラの港で俺が勇者ごっこに負けるのを見ていた、あの老人だ。
百年前の勇者が、北の魔王城で生きていたこと。誰も斬らずに終わったこと。
王都からは、勇者が魔王を討ったという布告が出ただけだった。
ただ、神官からの返事には、こう書いてあったそうだ。
――書庫の白紙のページに、一行、書き足しておきました。表には、出しません。ですが、もう、相討ちということには、なっておりません。
***
その夜、魔王城の大広間で、最後の宴が開かれた。
五魔将は解散し、魔王軍もなくなる。ルミエラが、そう決めたのだ。
オークもトロルも、スケルトンも獣人も。
それぞれの故郷へ帰る者もいれば、魔王城に残って畑を耕すと言い出した者もいた。
大広間の真ん中で、リオとノエルとボルドとミレイユが、配下の魔物たちに囲まれて困ったように笑っていた。
勇者一行が、魔王軍の宴の真ん中にいる。原作のどのエンディングにもなかった光景だった。
大広間の端で、俺は壁にもたれてそれを眺めていた。
隣にセレスが立ち、何も言わずに俺と並んで大広間を眺める。
「……これで、全部、終わったのね」
「ああ」
「あなた、これから、どうするの」
少し、考えた。
魔将ではなくなった。
黒鎧の力も、もうほとんど残っていない。ただの大柄な、剣の振り方を知っているだけの男だ。
――剣の振り方を、知っている。
「……道場でも、開こうかと思う」
セレスが、こちらを見た。
「剣の、道場。……誰かに、負け方を教える場所や」
セレスは驚いた顔をして、ふっと笑った。
「似合うわね」
「そうか」
「ええ。とても」
セレスは、俺の籠手の上にそっと手を重ねる。
氷の一族の手は、冷たかった。
でも、黒鎧の籠手は、もう、少しも熱くなかった。
(第5章 負け役の中ボス 完)




