第79話 最後の一行
灰色だった。
上も、下も、右も、左も。
どこまでも続くのっぺりとした灰色の空間。光も影もなく、遠近もない。
でも、何もないわけではなかった。
灰色の中に、ぼんやりと形が浮かんでいる。
壁の形だけがあって、色も模様もない灰色の箱。――テストのとき何百回も歩いた、作り込まれる前のマップだ。
その箱の一つに、見覚えのある形があった。
円形の貯水槽と、そこから放射状に伸びる八本の通路。
北の三本目の通路が、途中で崩れている。
(……ブランシュの、旧水路)
没になったマップ。処理が重すぎて、町に入るたびに画面が止まるという理由で、まるごと削られたマップ。
ボツが、その横をすり抜けていく。
灰色の中に、人影が立っていた。
十二人。同じ服を着て、同じ背丈で、同じ姿勢でぼんやりと立っている。顔はのっぺりとした灰色で、目も鼻もない。
「……あれは」
リオが、小さな声で言う。
「ブランシュの町の、人たち……?」
――ゲームの中のブランシュには、住人が十二人しかいなかった。
処理の都合で、同じ顔の村人が時間をずらして使い回されていた。
この世界のブランシュには何百人という人が、それぞれ違う顔で、違う声で笑っている。
その奥に、使い回されていた十二人の最初の形が、こうして残っていたのだ。
「没になったもんや」
俺は、リオに言った。
「この世界が、今の形になる前に、作られて、捨てられたもんが、全部ここにある」
ボツが、喉を鳴らした。懐かしそうに。
ここは、ボツが最初にいた場所なのかもしれない。
***
灰色の奥へ、奥へ。テクスチャの貼られていない森。
形だけの、黒い影の魔王。名前のない、灰色の騎士たち。
――そして、灰色の空間の、一番奥に。
黒い、文字が浮かんでいた。
巨大な文字だった。灰色の空間いっぱいに、一行だけ。墨で書いたように、黒々と。
『――こうして、世界は、静かに終わった。』
ボツが、その文字の前で翼を広げて止まった。
「ヴァ、ヴァルガス様……あれは……」
ギギがボツの首にしがみついたまま、文字を見上げている。
答える前に、懐の伝声貝が震えた。
『――私が、書いた一行です』
ゼクスの声だった。玉座の間に置いてあったセレスの貝を使っているらしい。
声の向こうで、ミレイユの炎の音とノエルの叫ぶ声が、かすかに聞こえる。玉座の間は、まだ持ちこたえている。
『あの一行が、呪いの核です。呪いは、行き場をなくすと、最初の版の結末に向かって、世界を書き換えようとする』
黒い文字が、脈を打っている。
脈を打つたびに、周りの灰色が少しずつ濃くなっていく。
「……断ち切ったら、どうなる」
『消えます。たぶん。……書いたことがない結末ですから』
ゼクスの声が、少しだけ震えていた。
***
後ろを振り返る。
リオが聖剣を握りしめて、黒い文字を見上げていた。
金色の光が、刃の上で揺れている。灰色の空間の中で、その光だけが色を持っていた。
「リオ。行けるか」
「行けます。……でも、先生」
リオは、黒い文字を見つめたまま言った。
「断ち切ったあと、そこに、何も書かれてなかったら、どうなるんですか」
最後の一行が消えて、そこが白紙になったら。
世界は、結末を失ったまま、どうなるのか。
答えられなかった。
『白紙になったら、そのときは、私が書きます』
伝声貝の向こうで、ゼクスが言った。
***
「ボツ。あの文字の、真ん中まで、飛べるか」
ボツが、ぐるる、と低く鳴く。
黒い文字の周りは、灰色がひときわ濃い。
近づくだけで、肌の色が抜けていく。ボツの色の違う鱗も、少しずつ灰色に染まり始めていた。
「ヴァ、ヴァルガス様……! ボツ殿の鱗が……!」
「大丈夫や」
玉座の間で、灰色は俺の鉄靴の先で止まった。
ボツの首の窪みに、手のひらを当てた。
黒鎧の中に、還りきらずにわずかに残った魔力。
魔王が分けてくれた、冷たくて、静かで、寂しい魔力。その最後の一滴を、ボツの体に流し込む。
「改稿の外側におる俺が、触っとる限り、ボツは、灰色にはならへん」
手のひらの下で、灰色の広がりがぴたりと止まった。
色の違う、貼りかけのテクスチャのような鱗が、灰色の空間の中で元の色を取り戻していく。
ボツが、高く鳴いた。
「行け、ボツ!」
ギギが叫んだ。小さな体を、ボツの首にぎゅっと押しつけて。
「真ん中まで、まっすぐに……!」
***
ボツが、黒い文字の中へ飛び込んだ。
文字の一画一画が、刃のように鋭くなって、ボツの体をかすめていく。
黒い墨の飛沫が、俺の籠手に、リオの頬に、ギギの丸眼鏡に、跳ねかかる。
視界の端から、色が消えていく。
それでも、ボツは、まっすぐに飛んだ。
――文字の、真ん中。
「終わった」の、「終」の字の、ちょうど中心。
「リオ、今や!」
「――はい!」
リオが、ボツの背中の上で、立ち上がった。
足で、ボツの鱗を固めて。
重心を前に。脇を締めて。
――目を、閉じずに。
聖剣を、両手で、大きく振りかぶる。
廃砦で、俺の兜を割ったときと、同じ構えだった。
ヒュドラの前で空へ跳んだときと、氷冠を割ったときと、獣王の牙を折ったときと。栞を断ったときと、筆頭の間で、俺の兜を、もう一度割ったときと。
全部、同じ構えだった。
「――断ちます!」
聖剣が、振り下ろされた。
金色の光が、黒い文字を、真ん中から、まっすぐに断ち切る。
***
音は、しなかった。
パキン、とも、鳴らなかった。
黒い文字が、真ん中から静かに二つに分かれていく。
「終」の字が左右に分かれ、その両側の文字も、一つずつほどけるように崩れていく。
――こうして、世界は、静かに――
墨が水に溶けるように、文字が消えていく。
最後に残ったのは、何も書かれていない、白い一行分の空白だった。
その空白の前で、ボツが翼を広げて止まった。
リオが聖剣を下ろして、白い一行を見つめている。
それから、俺の肩越しに懐の伝声貝のほうへ身を乗り出した。
「……ゼクスさん」
伝声貝の向こうで、息を呑む気配がする。
「書いてください。勇者は、誰も斬らずに、勝ちました、って」
リオの声は、震えていなかった。
玉座の間で、斬りません、と言ったのと同じ声だった。
この一行は、この子にしか言えない。
魔王を斬らずに勝ったのは、この子なのだから。
『今なら、書けます。……あなたたちが、見せてくれたから』
白い一行の空白に、金色の光がぽつりと灯る。
一文字。
また、一文字。
インクではなかった。
聖剣の光と同じ、温かくて柔らかい夜明けの光のような金色の文字が、一つずつ空白の上に浮かび上がっていく。
伝声貝の向こうで、ゼクスがゆっくりと読み上げた。
『――勇者は、誰も斬らずに、勝った。』
***
金色の文字が、灰色の空間に広がっていった。
灰色が溶けていく。テクスチャのない森に緑が戻り、形だけの灰色の箱に壁の模様が、窓の光が戻っていく。
十二人の、顔のない村人たち。
その灰色の顔に一人ずつ、違う目が、違う口が、違う笑顔が浮かび上がっていく。
――ブランシュの、何百人という人々の顔に。
ボツが、高く鳴いた。
色の違う鱗が、金色の光を浴びてきらきらと輝いていた。
のっぺりしていた尻尾の先に、細かな鱗の模様がすうっと浮かび上がっていく。
作り込まれる前に放り出された、没データの飛竜が。
最後まで、作り上げられていく。
「ボ、ボツ殿……! 尻尾が、立派に……!」
ボツが、誇らしげに尻尾を振る。
その風をまともに顔に受けて、ギギが目を白黒させた。
***
金色の光の中を、ボツが、上へ、上へと昇っていく。
後ろで、リオが俺の肩をつかんでいた。
「先生」
「なんだ」
「……終わりましたか」
灰色が、すべて消えていく。
光の向こうに、魔王城の玉座の間の天井が見えてきた。
「ああ」
振り返って、リオを見る。
頬に、黒い墨の飛沫が跳ねていた。
金色の光の中で、リオが、声を上げて、笑っていた。
「終わった。……お前の勝ちや」




