第78話 没の嵐
最初に気づいたのは、ミレイユだった。
「――壁が」
ミレイユが、玉座の間の壁を指さした。
玉座の後ろの、さっき目の端に引っかかった一角だ。
それが、広がっていた。色が抜けたのではない。凹凸もひびも苔の跡も消えて、のっぺりとした何もない面に変わっている。
灰色は、ゆっくりと広がっていく。壁から柱へ。柱から床へ。
(……テクスチャが、剥がれとる)
開発の途中の、まだ何も作り込まれていないマップ。
テストのとき、何百回もその灰色の箱の中を歩いた。
「窓の外を見て!」
ノエルが、悲鳴を上げた。
高い窓の外で、北の曇り空が、灰色に変わっていた。
雲の形だけを残して、色も光も奥行きも消えた、平らな灰色。それが、地平線の向こうへ少しずつ広がっていく。
「……あの夜と、同じだ」
魔王が、窓を見上げていた。
「先代を討った夜、空が一度だけ、こうなった。……呪いが、我の胸に落ちるまでの、ほんの一瞬だけ」
――知っている。
テストのデータに一度だけ紛れ込んでいた、名前のないエンディングの断片。
マップの端から色が抜けて、灰色が広がっていくだけの映像だった。
(……あれ、これやったんか)
ゼクスの最初の版の結末。世界は、滅びもせずに、ゆっくりと終わっていく。
その「終わっていく」の正体が、目の前の灰色だった。
天井の黒い渦を見上げる。
百年前は、受け取る者がいた。だから、一瞬で済んだ。
今は、誰も受け取らない。移る先をなくした呪いが、あそこで回りながら、世界ごと没にしようとしている。
***
ふと、視線を感じた。
玉座の間の入口に、黒い礼服の男が立っている。
ゼクスだった。いつからそこにいたのか、誰も気づかなかった。
灰色に変わっていく壁から、静かな目が俺に移る。答え合わせを待つ書き手の目だ。
「……あんたが書いた結末やな」
ゼクスは、小さくうなずいた。
「止め方は、書いていません」
なら、自分で探すしかない。
バグの元は、いつもいちばん奥にある。
渦の中心に目をこらした。黒い渦のさらに奥に、色のない、もっと深い灰色が覗いている。
(……マップの外側や)
テストのとき、壁抜けのバグで一度だけ落ちたことがある。
地面も空もない、没データの置き場所。あそこに、呪いの核がある。普通の者は、近づいただけで灰色に呑まれるだろう。
でも、改稿の宮殿で、俺だけが書き戻されへんかった。
俺は、書かれた側やない。没の中でも、俺は俺のままや。
「先生」
リオが聖剣を握りしめて、俺を見ていた。
「あの渦を、斬ればいいんですか」
呪いだけを断ち切る力。それを持っているのは、この子だけだ。
でも、リオはこの世界で生まれた子だ。あの中に入れば、灰色に呑まれるかもしれない。
リオを乗せて、あの中を飛べるもの。
最初から、没になったもの。
「……ボツや」
乗り物の機能ごと、開発の途中で削られた飛竜。
テクスチャは貼りかけで、尻尾の先は作り込まれる前に放り出された。
「ボツなら、あの中を飛べる。……たぶん」
***
灰色が、床の半分まで来ていた。
セレスが、灰色の縁を氷で縁取る。ミレイユが、炎を放ち続ける。
灰色は焼けない。それでも、氷と炎の前で、少しだけ広がるのが遅くなった。
「長くは、もたないわ!」
ガルムが魔王の小さな体を抱え上げて、玉座の段の上に運んだ。
魔王は腕の中で、天井の渦を呆然と見上げている。
「……我のせいだ」
「違います、ルミエラ様。呪いのせいです」
膝に力を込めて、立ち上がった。足が、震えている。
鉄靴のつま先に、灰色の縁が触れていた。
灰色は、そこで止まっている。鉄靴の黒は、黒のままだ。
(……やっぱりや。俺は、呑まれへん)
「ボツは、厩舎や。ここからやと、遠い」
間に合うか。
そう思ったとき、懐の伝声貝が、かたかたと震えた。
『――ヴァ、ヴァルガス様ぁっ!』
ギギだった。
貝の向こうで、風がごうごうと鳴っている。
『い、今、そちらへ……! ボツ殿の、背中の上から……!』
***
玉座の間の高い窓が、外側から粉々に砕け散った。
ガラスの破片の雨の中を、黒い大きな影が翼を畳んで滑り込んでくる。
ボツだった。金色の目が俺を見つけて、喉の奥で嬉しそうに鳴く。
その首の付け根の窪みに、小さな影が両手両足でしがみついていた。
「お、お迎えに、上がりました……!」
丸眼鏡が、斜めにずれている。
顔は、真っ青。それでもギギは、ボツの首から手を離さなかった。
「……お前、乗れたのか」
雪の国で、二度と乗りとうございません、と雪に顔から突っ込んだゴブリンだ。
「鐘楼から、空が灰色になっていくのが見えまして……! 厩舎に走って、ボツ殿にお願いしたのでございます! ヴァルガス様のところへ、連れていってくださいと……!」
ギギの声が、震えていた。怖かったのだろう。今も、怖いはずだ。
それでも、来た。
ボツの首元まで歩いて、ギギの小さな肩にそっと手を置く。
「よく来た」
ギギが、丸眼鏡を押し上げようとして、ボツの首から片手を離した。
眼鏡がずり落ちかけて、慌てて、またしがみつく。
「は、はいっ……!」
「ギギ。お前は、降りて――」
「降りませぬ!」
玉座の間じゅうが、一瞬静まり返った。
「ボ、ボツ殿は、ギギがお願いして、ここまで来てくださいました! ボツ殿の手綱は、ギギが……!」
手綱など、ない。それでもギギは、ボツの首の窪みに小さな体をぎゅっと押しつけていた。
ボツが首を下げて、ギギの頭に鼻先をすりつける。
(……そうか。ボツも、ギギを選んだんか)
「頼んだぞ、ギギ」
***
ボツの背中に、リオと二人で乗った。
「先生!」
氷の縁取りの内側から、ノエルが叫んだ。
「リオを、ちゃんと連れて帰ってきてよ!」
「ああ」
セレスが、氷の縁取りの上からこちらを見上げている。
「……転ばないでよ」
白霧の神殿の前夜と、同じ言葉だった。
「ボツの背中で、転ぶことはない」
「落ちないで、って意味よ」
セレスは、口元だけで笑った。
「行くで、ボツ」
ひと羽ばたきで、天井まで昇った。
黒い渦が、目の前にある。その縁に近づくだけで、肌の表面がちりちりと色を失っていく気がした。
「――目、閉じるなよ」
「……はい」
ボツが、渦の中心へ飛び込んだ。




