第77話 負けを認める魔王
魔王はセレスに手を握られたまま、しばらく動かなかった。
黒い冠を戴いた頭が、小刻みに震えている。
涙が白い頬を伝って、玉座の間の黒い床にぽたぽたと落ちていた。
それでも、魔王は立ち上がった。
セレスの手を、そっとほどいて。
床に落ちた黒い剣を、拾い上げて。
「……それでも」
黒い剣の切っ先が、床から持ち上がる。
「それでも、我は、魔王だ」
魔王は、リオに向き直る。
「呪いは、まだ、我の胸の中にある。我が生きている限り、この呪いは、消えぬ。……次の勇者が来るまで、また百年。その次の勇者が来るまで、また百年」
魔王の手の中で、黒い剣が震えていた。
「斬ってくれ、勇者。……頼む」
***
リオは、聖剣を構えた。
金色の光が、刃の上で揺れている。
魔王が両手を広げかけた。今度こそ斬ってくれるのだと思ったのだろう。
リオは、床を蹴った。
魔王の懐へ。
まっすぐに。一拍だけ、遅らせて。
――聖剣の切っ先が向かったのは、魔王の胸ではなかった。
狙ったのは、魔王の頭の上の、黒い冠。
リオは魔王の頭上を越えるように、小柄な魔王のさらに上へと跳んでいた。
空中で、聖剣を振り下ろす。
金色の光をまとった刃が、黒い冠の、小さな黒い宝石に吸い込まれた。
――パキン。
乾いた音。
廃砦で、兜が割れたときと、白霧の神殿で、氷冠が割れたときと、闘技場で、牙が折れたときと、海の底で、栞が折れたときと。
そして、さっき、筆頭の間で、俺の兜が割れたときと。
同じ音だった。
***
黒い冠が、魔王の頭から真っ二つに割れて落ちた。
床の上に、からからと転がっていく。
割れた宝石から、黒い煙のようなものが細くたなびき始めた。
魔王は呆然と、割れた冠を見下ろしている。
「……なぜ」
リオが、魔王の前に着地した。
息を荒くしながら、聖剣を下ろす。
「あなたの、証です。魔王の証。……五魔将のみんなと、同じです。証を割れば、勝ちです」
「だが、我は、まだ生きている。呪いは――」
「負けを、認めてください」
リオが、魔王の言葉を遮った。
「ガルムさんが、教えてくれました。獣人の決闘は、負けを認めることまで含めて、一つの儀式だって。……僕が勝ちました。だから、あなたが負けを認めてくれたら、それで、終わりです」
魔王の目が、揺れる。
「負けを、認める……」
「はい」
「斬られずに……」
「はい。生きたまま、負けてください」
***
魔王は、長いあいだ、黙っていた。
黒い剣を握った手が、震えている。
割れた冠からたなびく黒い煙が、少しずつ濃くなっていた。
煙の流れていく先で、玉座の後ろの壁の一角だけが、灰色だった。
黒い石の目地も、ひびも見えない。そこだけ、のっぺりとした平らな面に変わっている。
(……なんや、あれ)
目を凝らそうとしたとき、魔王の唇が動いた。
「……できぬ」
小さな声。
「負けを認めたら、我は、生きねばならぬ。百年分の罪を、抱えたまま。我が殺した者たちの顔を、毎晩、思い出しながら。……それなら、斬られて終わるほうが、ずっと楽だ」
魔王は、うつむいた。
「我は、百年、負けを認められなかった。……今さら、どうやって、負ければいい」
――どうやって、負ければいい。
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
俺は、ボルドの肩から腕を外す。
「おい」
ボルドが、止めようとした。
首を振って、一人で前へ歩き出す。膝が、がくがくと震えている。それでも、一歩ずつ。
魔王の前まで歩いていって、そこで、膝をついた。
割れた兜の、魔王軍五魔将筆頭が。
魔王の、すぐ目の前に。
「――負け方なら、教えたる」
***
魔王が、顔を上げた。
黒い目が、俺を見ていた。
割れた兜の下の、ただの男の顔を。
「……黒鎧のヴァルガス」
その声が、俺の名前を呼んだ。
「そなたは、百年前も、そうして、我の前に膝をついた。先代の五魔将の下で、ただ一人、負けを認めて、生き残った魔将だ」
(……知らんかった)
テストのデータのどこにも、そんなことは書いていなかった。この体の、俺が来る前の話だ。
負けるくらいなら死ね、と昔のヴァルガスはガルムに言っていたらしい。一度負けて生き延びた男の、裏返しの口癖だったのかもしれない。
「俺はな、何回も負けとる」
口から、素の言葉が出ていた。
「廃砦で、兜を割られた。白霧の神殿で、氷の巨人ごと砕かれた。ザハルの闘技場で、獣の牙の下で、本気で負けかけた。海の底で、力を全部なくした。……さっき、筆頭の間で、本気で戦って、本気で負けた」
一つずつ、数え上げていく。
「前の世界でも、負けてばっかりやった。何百枚報告書を書いても、誰にも読まれへん。誰にも見てもらえへんまま、会社の床で、一人で死んだ」
魔王は、黙って聞いていた。
「でもな」
魔王の目を、正面から見た。
「負けても、生きてええんや」
魔王の唇が、震える。
「俺は、何回も負けて、まだ生きとる。負けて、悔しくて、それでも生きとったら、次は、ちょっとだけ上手く負けられるようになる。……いや、ちゃうな」
首を振る。
「負けて、生きとったら、次に誰かが負けたとき、その負け方を、教えてやれる」
ガルムが後ろで、低く息を吐く音がした。
「あんたの罪は、消えへん。俺の嘘も、消えへん。……せやけど、生きとったら、その分、誰かに何かを教えられる。あんたが、百年かけて、五魔将を誰も死なせへんように作ったみたいに」
膝をついたまま、剣を握った魔王の小さな手を見る。
「死んで終わったら、もう、誰にも何も教えられへんで」
***
魔王の手から、黒い剣が滑り落ちた。
床に落ちた剣はからんと乾いた音を立てて、そのまま黒い煙になって消えていく。
「……師も」
背後で、ガルムの声がした。
「我が師も、若いころの魔王様に負けた。負けを認めて、生きた。そして、我を拾って、育ててくれた。……負けたから、我がいるのです、魔王様」
魔王が、ガルムを振り返る。
「ルミエラ様」
ガルムが、魔王の昔の名前を呼んだ。
「師は、あなたのことを、いつも話していました。迷いのない、誰かを守るための拳だったと。……どうか、もう一度、生きてください。今度は、ご自分を守るために」
魔王の肩が、大きく震えた。
小さな手が顔を覆い、指の隙間から嗚咽が漏れる。
――百年分の、泣き声だった。
玉座の間に、少女の泣き声が静かに響いている。
しばらくして、魔王は顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。
涙で濡れた黒い目がリオを見て、それから、膝をついたままの俺を見る。
「……我の」
かすれた声。
「我の、負けだ」
――パキン、とは、鳴らなかった。
代わりに、魔王の胸の奥から何かがほどけるような音がする。
百年、固く結ばれていた紐が、ようやくほどけたような、小さな、小さな音だった。
ほどける音のあと、魔王の胸から、黒いものが溢れ出した。
煙ではない。
液体でもなかった。墨を水に垂らしたように、空中にじわりと滲み出してくる黒い何か。
それは魔王の体から離れると、玉座の間の天井へとゆっくり昇っていった。
「……呪いが」
魔王が自分の胸に手を当てて、呆然と呟いた。
「呪いが、出ていく……」
黒いものは、天井のあたりで渦を巻き始めた。
割れた冠からたなびいていた黒い煙も、そこへ吸い寄せられていく。
――呪いが、行き場を探している。
魔王を殺した者に、移るはずの呪いだ。
でも、誰も魔王を殺さなかった。移る先がない。
渦が、少しずつ、大きくなっていく。




